2019年 重光葵記念館 明治以降で最も偉大な外交官のひとり重光葵 湯河原にひっそりとたたずむ記念館は、日中戦争から日ソ交渉まで激動の時代を再確認できる
石葉を後にして、重光葵記念館へ行って来ました。
重光葵(まもる)は「明治以降で最も偉大な外交官のひとり」とされています。
当時GHQの方針は、「占領下においても日本の主権を認めるとしたポツダム宣言を反故にし、行政・司法・立法の三権を奪い軍政を敷く」というものでした。公用語も英語にするつもりでした。
重光葵はアメリカの「占領軍による軍政」の要求を取り下げさせた
重光はマッカーサーと対峙し、「占領軍による軍政は日本の主権を認めたポツダム宣言を逸脱する」「ドイツと日本は違う。ドイツは政府が壊滅したが日本には政府が存在する」と猛烈に抗議し、布告の即時取り下げを要求し、これを覆させました。
そして、1945年9月2日、 全権大使として、東京湾に停泊するミズーリ艦上で連合国の降伏文書に調印した人物です。
- 1887年、大分県大野郡三重町(現在の大分県豊後大野市)に生まれる。
- 1911年、東京大学を卒業し、外務省に入る。
- 1932年、中国公使として上海事変の外交処理にあたり、 「上海停戦協定」の署名を果たす。
- 1938年、張鼓峰事件の外交折衝にあたり、日ソ停戦協定を成立させる。
- 1943年、東条内閣の外相となり、大東亜新政策を掲げ、「大東亜会議」を開催する。
- 1945年、同年9月2日日本側首席全権として降伏文書に調印する。
- 1946年、A級戦犯容疑で拘束、禁錮7年の判決を受ける。
- 1950年、仮釈放
- 1952年以降、公職追放解除ののち改進党総裁に就任するなど、長く政治に携わった。
重光は、1931年発生した満州事変に対して、「明治以来積み立てられた日本の国際的地位が一朝にして破壊せられ、我が国際的信用が急速に消耗の一途をたどって行くことは外交の局に当たっている者の耐え難いところである」(重光著『昭和の動乱』より)と怒り、協調路線へ向けて努力しします。
重光は右脚切断手術の前に、激痛の中、「上海停戦協定」の署名を果たした。
そして、1932年、「上海停戦協定」の調印を残すだけとなった同年4月29日、天長節祝賀式典で、朝鮮独立運動家の爆弾攻撃に遭い重傷を負います。
「大東亜会議」が太平洋戦争の前に実施されていたら、今の世界の縮図は大きく変わっていた可能性がある。
1943年の「大東亜会議」はアジア初の国際会議でした。日本、タイ、中華民国、フィリピン、満州国、ビルマの6か国、オブザーバーでインドが参加しました。大東亜共栄圏、要はアジアの欧米諸国による植民地支配からの解放を目指すという、画期的なものでした。しかし、日本は敗戦となり、アメリカ、イギリスを中心とした連合国による東京裁判ですべて否定されます。
太平洋戦争で、日本が東南アジアの欧米の植民地を占領したことに対しても、「日本はいやしくも東亜民族を踏み台にしてこれを圧迫し、その利益を侵害してはならない。なぜならば武力的発展は東亜民族の了解を得ることができぬからである」と怒りを露にしています。
私が尋ねた重光葵記念館は、長男の篤氏が重光が足の療養として建てたここ湯河原の別荘の1階に、外交として携わって来た多くの歴史を、写真や動画で紹介してくれています。重光が愛用していたアタッシュケースなどの愛用品や、天皇陛下から送られた実際の義足も展示されています。
パンフレットに篤氏のコメントが載っています。「父が関わった日中戦争、第二次世界大戦、終戦、日ソ交渉など、この激動の20年を後世へ正確に伝えて行く必要を感じた。。。」と。
熱海、湯河原方面に行かれる際、時間があればぜひ立ち寄ってみてください。なお、開館は金土日の週3日だけです。日曜は午前中のみ。