「女性」が芸術の源だったルノワール 亡くなる間際まで筆を離さず、最後の言葉は「やっと何かわかったような気がするよ。。。」

ピエール=オーギュスト・ルノワールは 『ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏場』、『舟遊びの人々の昼食』など、日本人になじみの深い印象派画家です。

「女性」がルノワールの芸術の源

モネは積み藁や大聖堂など、自然や風景、建物など多く描きましたが、一方ルノアールは古典的な「人物」、それも「ふくよかな女性」の絵をもっぱら得意としました。実際に彼が愛した女性を描き続けました。

またモネが生涯の多くをパリ郊外に住んでいたのに対して、ルノワールは生涯パリの中心に居を構えました。 ルノワールは「印象派画家」と言われます。でも筆のタッチは印象派でも、新古典主義に傾斜して行くように、モネなど他の印象派画家の作品とはだいぶ違います。

ルノワールは1841年2月25日にリモージュで生まれます。クロード・モネが1840年11月14日に誕生した3か月後のことです。同い年です。リモージュは白く透き通った輝きのある陶磁器リモージュ焼きの生産地で有名です。 その後、 1844年、3歳の時一家でパリに移ります。

13歳にして近所の磁器工房の徒弟となり、絵付師としてお金を稼ぐなど、この頃から類まれな才能を発揮し始めます。

年代ごとに、ルノワールの代表的な絵画

「船遊びの昼食」はリゾート地シャトゥーにある”メゾン・フルネーズ”という名前のレストランです。モデルはみな友人です。ルノワールの恋人アリーヌ・シャリゴ、カイユボットもいます。ランチ・パーティーと言ったところでしょうか。庶民がレジャーを普通に楽しむ時代が始まっていたんですね。なお、このレストランは1984年に修復されて現在も営業しているとのことです。

直後の1881年には、アルジェリアへ行き、ドラクロワに倣い『モスク』を描きます。続いてヴェニス、ローマ、ナポリと旅を続け、ラファエロとアングルに魅了され、古典的な巨匠へと向かいます。

「ピアノを弾く少女たち」 黒髪の女の子はジュリー・マネ(ベルト・モリゾの娘)です。

「ガブリエルとジャン」 女性はガブリエル・ルナール、1894年~1914年の約20年間、ルノワールに仕えた女性です。数多くモデルになりました。赤ちゃんは前年に生まれた次男ジャンです。

ルノワールは新古典主義に傾斜、色彩重視からデッサン重視に転向

「大水浴図」1884-87年からもわかると思います。

1890年、49歳の時レジオン・ドヌール勲章(ナポレオン・ボナパルトによって制定されたフランスの最高の勲章、1881年、エドゥアール・マネも49歳で受賞)受賞を打診されますが辞退しています。

そして1919年、心臓発作で亡くなります。享年78歳でした。

亡くなる間際に最後の絵を描き上げ、筆を置き、召使にこうつぶやいたそうです。

「やっと何かわかったような気がするよ」ルノワール

1887年の自転車での転倒の事故から、亡くなるまで32年もの間、関節炎に悩まされていました。最後の絵は亡くなる年に仕上げています。関節炎で指が不自由になりながらも、これだけの絵を世に残したとは、信じられないです。

『ムーラン・ド・ギャレットの舞踏場』は1990年のニューヨーク、サザビーズで7,810万ドルという高額で落札されています。これは当時で世界5位の高値で、日本人が落札でしています。1990年は1ドルが約150円だったので、120億ドルです。1990年の日本といえばバブル期の最後でした。

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