ポール・セザンヌは「近代美術の父」と讃えられている ピカソには「唯一の師」とまで言われ、キュピリズムの概念の基礎を作った

セザンヌの原点は、このプロヴァンスの環境や自然、人々の中に存在していた。

1839年、フランス南部、エクス・アン・プロヴァンスで生まれます。プロヴァンスは北に位置するパリとは今でも電車で4,5時間の距離があります。

印象派画家と言えば、パリに住み、毎夜行きつけのカフェに募って、絵画談義をするといったことが日課でした。しかし、セザンヌは少し変わっています。あまりパリに住み着くことはなく、もっぱら生まれ故郷のプロヴァンスで絵画に没頭しました。

セザンヌは、13歳の時、地元の名門中学で自然主義作家エミール・ゾラと天文学者になるジャン=バティスタン・バイユに出会い、後まで「3人の分かちがたき親友」と呼ばれるほど親交を持つことになります。

ゾラには印象派の擁護者として何度も窮地を助けられることになります。ある事件が起こるまでは...

ある事件とは、1886年にゾラが出版した「制作」でした。「知性のある若者が訳の分からない手法で描くことに、彼女は驚きを感じた。...実を言えば、彼は狂っているに違いないと感じていた」このような下りです。

セザンヌは自分のことを描いたに違いないと思い激怒します。この頃、ゾラは既に文豪としての名声を得ていました。一方セザンヌは、1863年、24歳の時の「落選展」で画家デビューをします。しかし、その他の印象派画家と同様に、その後もサロンからはことごとく拒絶され続けます。

経済的な大きな格差が背景にあるとも言えますが、50年近く親友だった二人です。もっと違う、知られていない複雑な事情があったとみるべきだと思います。

この件を題材にした映画 2016年制作「セザンヌと過ごした時間」があります。『ラ・ブーム』の脚本でも知られるダニエル・トンプソンさんが監督をしています。実は二人は最後まで親交が絶えなかったというストーリーです。チャンスがあればぜひ見たいと思っています。

1860年代まで不遇だったセザンヌは1970年代以降、その能力が開花し始めます。

セザンヌは1872年から2年間、パリ郊外のポントワースでピサロと一緒に、戸外で絵を描くことで明るい色彩が現れてきた。

アナーキズム思想を持った画家でもあり、政治家でもあったピサロは、セザンヌより9歳年上で、 多くの後輩画家から彼の思想、行動、人間性までも尊敬されました。セザンヌも大きな影響を受けたに違いありません。

また、セザンヌは自身の絵が印象派とは思っていなかったようです。印象派展には1874年、1877年の2回しか出品していません。1874年に出品した「モデンヌ・オランピア」がマネのオランピアと比較され、酷評されたことが、自身を印象派と認めたくなかった理由の一つだったのかも知れません。

セザンヌは3大後期印象派画家として、ゴーギャン、ゴッホと並び称される。

しかし、世間の評判はセザンヌの意志とは反対に、その後印象派として名声を得て行きます。

セザンヌはテーブルの上の林檎など静止画をよく書きました。絵画は二次元の平面における構成の美学だと考え、人物画でさえ静止画のように描いています。後に若い画家のベルナールに宛てた書簡で「自然を円筒形、球、円錐によって扱いなさい」とも述べています。

ついには、マティスとピカソがセザンヌについて”近代美術の父である”と述べているように、特にキュピリズムの概念の基礎を作ったことに最も大きな評価がされています。

ピカソは「セザンヌは私の唯一の師であり、みなの父のような存在である」と述べている。

1906年、肺炎が原因となり、「エクスの巨匠」は死去します。人生の後半は、名声が上がり経済的も裕福になっていくわけですが、家庭では妻と息子とは長い間別居状態にあり、死に際には間に合わなかったそうです。

『レヴェヌマン』紙を読むルイ=オーギュスト・セザンヌ(画家の父) 1866年
牧歌(バルバリア河畔のドン・キホーテ)1870年
オーヴェール=シュル=オワーズの首吊りの家1873年
モデルヌ・オランピア(近代のオランピア、新オランピア)1873-74年
林檎とビスケット(リンゴとビスケット) 1879-82年
サント=ヴィクトワール山と大きな松の木1885-87年
アルルカン(道化)1888-90年
カード遊びをする人たち 1890-91年
温室のセザンヌ夫人 1891-92年

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