自らを「首輪のない森の狼」と称したウジェーヌ・アンリ・ポール・ゴーギャン

ゴーギャンは印象派の自然主義を強烈に批判し、印象派とははっきりと異なる色使いの作品を多く残しました。

後期印象派の巨匠のひとりに数えられますが、彼の考えや感じ方は他の画家とは全く異質なものでした。

明確な輪郭線と平坦な色で構成する様式は綜合主義という新ジャンルを開拓し、ピカソやマティスといった前衛美術家に大きな影響を与えた画家です。彫刻家、版画家、陶芸家、著述家でもありました。

ゴーギャンは、1848年パリに生まれ、6歳でペルーに移り住むことになりました。 ペルーは南アメリカ北西部、太平洋岸の国です。幼少期にペルーで育った経験がその後の彼の人生を決めて行くことになります。

その後オルレアンにいた父方の祖父ギヨーム・ゴーギャンに預けられ、14歳からジャンヌ・ダルク高校に通います。

オルレアンはパリの約130km南西・ロワール県の中心都市で、ジャンヌ・ダルクが街を救ったことでよく知られています。現在、この街はジャンヌ・ダルク一色の観光の街になっています。

オルレアンについては、次の投稿でご紹介しています。是非ご覧ください。

ゴーギャンは1871年パリに戻り、23歳から11年間株式売買人として働き、2年後の25歳の時にデンマーク人女性メテ・ソフィー・ガードと結婚し、五人の子どもをもうけます。

もともと絵に強い興味を抱いていたゴーギャンは、結婚4年目の1877年、自らアトリエを構えます。

ここから「株式売買人であり画家でのある」といった人生がスタートします。

1881年、1882年と連続して印象派展に作品を出品します。しかし、作品「ヴォジラール市場」はじめゴーギャンの作品はことごとく酷評されます。

さらに、1882年株式市場の崩壊が追い打ちをかけるように、ゴーギャンの生活も困窮を極めます。

1884年、絵描きを一旦諦め、家族でデンマークのコペンハーゲンに移り住みます。この当時生活を支えていたのは妻のメテでした。彼女は外交官研修生にフランス語を教え、どうにか収入を得ることができました。

一方のゴーギャンは商才はなかったようです。自分では大して稼ぐことができず貧困状態が辻来ます。この年、ついに妻と別れ、パリに戻ります。37歳の時でした。

ゴーギャンは画家になるとことを決意し、文明社会を逃れ、フランス領パナマやマルティニーク島へ旅行します。

帰ってきたゴーギャンはスーラの点描画法さえ否定します。アフリカやアジアの美術があまりに対照的だったのでしょう。おりしも当時はジャポニズムに代表されるように、他文化への関心が高まっていたときでした。

ゴーギャンは、1888年にゴッホと9週間、アルルの「黄色い家」で共同制作を行ったことがあります。

ゴーギャン40歳、ゴッホ35歳の時でした。しかし、最後には二人の関係は悪化しゴーギャンは去ります。あの「ゴッホが自ら耳を切り落とす事件」が起こった翌日のことでした。

この時ゴッホは、「想像に基づいて描く」というゴーギャンの理論を試したことがありました。でもゴッホが求めるものとはだいぶ違っていたのでしょう。この時試した作品は「エッテンの庭の想い出」一作に留まります。

ゴーギャンは南太平洋(ポリネシア)タヒチへ出航します。

1891年、43歳の時のことです。

1890年の大半をここタヒチで過ごし、この時期から多くの傑作を作り出すことになります。

タヒチでは13歳の少女を現地妻としていたことを、ゴーギャン自身が書いた伝記『ノア・ノア』で、認めています。名前はテハマナ(通称テフラ)。

この当時のゴーギャンの苦悩に満ちた人生を描いた、2018年公開の映画を観ました。

1893年パリに戻り、タヒチの題材を基に作品を制作します。

ゴーギャンは、1895年6月28日、再びタヒチに向けて出発します。

1897年、ゴーギャン49歳、自ら生涯の傑作と認める大作「われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか」を仕上げ、彼自身の思想を具現化しました。

そして、1903年、彼は心臓発作で死去します。享年55歳でした。

ゴーギャンは、 テハマナと別れた後も、2人の現地人と結婚しています。

一人は当時14歳だったパウラという少女で、2人の子供をもうけ、女の子は生後間もなく亡くなり、男の子はパウラが育てたとのことです。

もう一人は亡くなるわずか2年前の1901年、14歳の少女でした。彼女との間にも一人の娘がいます。

ゴーギャンは亡くなった後に、次第に名声と尊敬を獲得して行きます。

タヒチで結婚した3人の少女がもしこの映画を観ることができるなら、どんな思いで見るのだろうか?

1891年マリア礼賛
1886年ブルターニュの羊飼い
1888年フィンセント・ファン・ゴッホの肖像
1889年黄色いキリスト
1891年タヒチの女たち
1897年われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか

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