「ドガと言えば踊り子」と言われ、生涯自分のスタイルを追求したエドガー・ドガ
ドガは印象派展の企画と運営に最後まで携わっていたことから、「印象派」の創設者の一人と言われています。第2回印象派展からずっと作品を出展しています。
しかし、本人は自分を「写実主義」であると主張し続けました。実際、ほとんどの印象派画家が戸外で風景を描いているなか、ドガはもっぱらアトリエにこもって制作するなど、古典を追求し続けた姿勢や画風からみて、印象派とは言えないのかもしれません。
イレール=ジェルマン=エドガー・ド・ガは、1834年にパリで生まれます。幼少の頃からアカデミックな教育を受け、20歳で名門リセ・ルイ・ル・グランを卒業し、ルーヴル美術館で名作の模写に励んだり、23歳になると3年間イタリアへ行くなど、古典芸術を熱心に勉強します。
エドガー・ドガはアングルを敬愛しひたすら自分のスタイルで描き続けた。
新古典主義の巨匠アングルを敬愛し、彼からの「線を引きなさい、沢山の線を」というアドバイスを終生忘れることなく、ひたすら自分のスタイルで描き続けます。
1859年、25歳でパリに戻ったドガは写実的な歴史画を多く書きました。
そして、1865年、31歳の時にサロンに初入選します。この頃から、ドガの画風は歴史画から現代の生活へと変化します。印象派の画風になって行くのです。エドゥアール・マネの影響が大きかったと言われています。
しかし、マネとの間には強烈なエピソードも残っています。
ドガは、マネ夫婦の肖像画「マネとマネ夫人像」を描いたことがあります。しかし、マネが夫人の描き方が気に入らないとして、絵の三分の一を切り取ってしまったのです。
これにドガは激怒し、この絵を取り戻し、代わりにマネからもらった静物画を突き返しました。この絵は現在、北九州市立美術館にあります。
1868年、サロンに出品した「バレエ、ミス・フィオレの肖像「夢の肖像」」は最初の代表的な作品となり、この頃から「ドガと言えば踊り子」のイメージが定着して行きます。
晋仏戦争のため国民軍へ入隊した後、1872年、38歳の時、ニューオーリンズの親戚のもとに滞在します。このニューオーリンズでは特に家族を描写した多くの肖像画を残しています。
作品の1つ「ニューオーリンズのコットンオフィス」はフランスで好評を博し、生涯で唯一の美術館買い上げの作品となりました。
ドガは、1875年オペラ座ガルニエ宮がオープンすると、毎日と言っていいほど、公演やバレエレッスンに通い詰めます。
ここオペラ座ガルニエ宮を舞台にしたバレリーナを中心とした多くの代表作を残していきます。
特に1881年、第6回印象派展に出品した「14歳の踊り子」は大きな反響を呼びます。高さは約1メートルで、実際の衣装やシューズ、コルセットまで着させてせています。
- 「ベレッリ一家」
- 「マネとマネ夫人像」
- 「バレエ、ミス・フィオレの肖像「夢の肖像」」
- 「ニューオーリンズのコットンオフィス」
- 「14歳の踊り子」
1917年、83歳で生涯を閉じ、今はモンマルトル墓地に眠っています。