ゴッホは人一倍真面目で、正直で、純粋な求道師だ そしてまさしく天才だった

フィンセント・ヴィレム・ファン・ゴッホ (1853-1890年)

ゴッホもモネに劣らず、日本人が大好きな印象派の画家です。特に「向日葵(ひまわり)」が有名だと思います。

1853年オランダのある村で、祖父、父と牧師だった一家の長男として生まれます。

彼は「狂気の画家」のイメージを持っている方も多いと思います。でも私はそうは思えません。

ゴッホは生まれながらにして、癇癪の病気を持っていました。それが原因で小学校を退学させられ、多感な幼少期に心に大きな傷を受けました。後に弟テオに宛てた手紙にも「僕の若い時代は陰鬱で冷たく不毛だった」と書き綴っています。

幾度とない逆境に会いながらも、絵を介して、何かを求め続けた求道師の姿を感じる。

ゴッホは人一倍真面目で、正直で、純粋な人間です。この時代の「習慣・慣習」は今とはだいぶ違っていたでしょう。今の時代だったら普通に、天才、秀才なんだと思います。

さて、1869年、16歳になると画商の職を得て活躍しました。しかしある理由で職を失います。

その後聖職者を目指します。しかし聖職者になるにはラテン語、ギリシャ語の語学をはじめ教養を身に付ける必要があります。猛勉強をしたようですが、牧師の試験に合格しません。

26歳でしかたなく伝道師を目指します。ゴッホは衣食住には興味がなく、好んで質素な生き方をしていたので、衣服や食べ物を困窮者に与えるなど究極の伝道師を目指したのだと思います。しかし、この行き過ぎた行為が世間の人には受け入れられません。結局解雇されてしまいます。

そして1880年、27歳の時、以前から興味を持っていた画業に専念します。弟テオ(テオドルス・ファン・ゴッホ)の経済的支援を受けて。

この頃から恋愛と破綻を繰り返します。恋愛でも心に大きな痛手を負うのです。

そうした中、弟テオはゴッホにとって生涯で唯一の理解者でした。特にゴッホが亡くなるまでの10年間は、兄の生活費をすべて援助し、精神的にも経済的にも支え続けました。

弟テオの存在無くして、ゴッホの名画は何一つ存在していない

1886年、33歳になったゴッホは、突然パリにいるテオのアパートにやって来ます。この頃、美術館でロートレック、ピサロ、ゴーギャンとの交流を深め、絵の勉強に励みます。

そして日本画にも強い興味を抱き、版画を買い込んで3枚の模写を残しています。すべて1887年の10月~12月に描いたものです。

  • ジャポネズリー:おいらん
  • ジャポネズリー:梅の開花
  • ジャポネズリー:雨の橋
  • 渓斎英泉「雲龍打掛の花魁」
  • 歌川広重・名所江戸百景「亀戸梅屋舗」
  • 歌川広重・名所江戸百景「大はし あたけの夕立」

パリで2年過ごした後、1888年、35歳になったゴッホはパリからアルルへ移住します。ここアルルで新境地を開き、「ひまわり」など数々の名作を描き上げました。アルルはとても気に入ったようで、テオに「アルルは日本みたいに美しい」と手紙で報告しています。日本に傾倒していたこともわかります。

ここアルルに「芸術家のコミューン」を作ろうと仲間に声をかけます。この頃からゴーギャンとの交流が深くなり、同居して一緒に絵を描くことを提案します。生活に困っていたゴーギャンもこれに同意し、テオもゴーギャンと同居することを条件に絵を買うことにします。

一番信頼しているテオとの共同生活でさえ最後はうまく行きませんでした。ゴッホとゴーギャン、強い個性の持ち主同士です。1890年10月に始まった共同生活は2か月で破綻します。「アルルを芸術家のコミューンに」との夢も夢と消えます。2人ともこの頃の心境をテオに手紙で宛てています。

  • ゴーギャン「ゴッホとはいっしょに暮して行けそうにない」
  • ゴッホ「ゴーギャンは私に嫌気をさしたようだ」

有名な「耳切り事件」が起こります。当時の新聞にも大きく掲載された。

「耳切り事件」とは1888年12月に起きた奇妙な事件です。ゴーギャンの証言によると「ゴッホが自分を襲ってきた。そのうちいきなり自分の耳を切り落とした」と言うものでした。その後ゴッホは顔見知りの売春婦に切り取った「耳の一部」を渡したことで、その娼婦から警察に通報されました。

近所の住民は、ゴッホが町に住むことに恐怖を覚え「精神病院え言えるべきだ」などの嘆願書を提出し、病気が回復しても精神病院へ引き戻されることもありました。

この頃には、躁うつ病、幻覚症状、被害妄想を患い、双極性障害も持ってようです。テオの妹に宛てた手紙に「優しさと怒りの面が交互にやって来る。彼は両方と戦っているようだ」と。

精神状態は悪化の一途を辿りながら、なんと画業は躍進した。

わずか10年の創作期間で約2100点以上の作品を作成し、大半は亡くなるまでの約2年間です。毎日1枚以上書き上げています。彼の絵は、渦巻く線や波打つ線が多くなってきます。

1890年ついにゴッホの絵が評価され、ブリュッセルの展覧会で初めて売れました。「赤い葡萄畑」400フラン、約25万円でした。生前に買い手が付いた唯一の絵となりました。

そして、1890年7月29日、ゴッホは拳銃で自らの命を絶ち、オーヴェルの地に埋葬されました。37歳でした。

前年にテオはヨハンナと言う女性と結婚しすぐ一子を授かります。ゴッホは誕生を祝って絵を描きテオに送っています。「これを部屋に飾って欲しい」とコメントを添えて。 ゴッホはこれ以上経済的に重荷になるわけにはいかないと思った。私にはそう思えます。

ゴッホの死後半年後には弟テオもなくなります。仲良く兄の横で仲良く並んで眠っています。これはテオの妻ヨハンナの要望でした。

1888年、ひまわり、アルルの跳ね橋、夜のカフェテラス、ローヌ川の星月夜

1889年、自画像、麦畑と糸杉、星月夜、アイリス

1890年、花咲くアーモンド、医師ガシェの肖像、カラスのいる麦畑、糸杉と星の見える道

2019年10月11日から、上野の森美術館でゴッホ展が開催されます。

さらに、2020年3月3日から上野の国立西洋美術館で、ロンドン・ナショナル・ギャラリー展が開催され、あの「ひまわり」が日本に始めて来るということです。

もうまじかです。今から楽しみでなりません。

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