ユゴーが荒廃しきったノートルダム大聖堂を救った。それは『ノートルダム・ド・パリ』、邦題『ノートルダムのせむし男』
4区 シテ島
フランス革命で荒廃したノートルダム大聖堂、そしてナポレオンによる復旧
1789年に勃発したフランス革命は、終いには、ルイ16世、マリー・アントワネットを処刑へとエスカレートして行きました。
最高権力を握ったロベスピエールは、政敵を次々処刑し、恐怖政治が行われました。自由思想を信奉し宗教を批判する市民により「理性の神殿」とみなされます。
そして、ノートルダム大聖堂では「理性の祭典」が行われ、 破壊活動、略奪が繰り返され、荒廃し尽されました。
最終的にこの混乱を収めたのがナポレオンです。
それまで大聖堂を飾っていた歴代の王の彫像も破壊されて埋められてしまいます。しかし、幸いにも、 偶然ある銀行の工事中で発見されました。現在はクリュニー中世美術館に展示されています。
中世美術館でこの何体もある彫像 「王の彫像」 を見たときは「なんの彫像があるんだろう。」とびっくりしました。
ヴィクトル・ユーゴーがノートルダム大聖堂を救った
1831年、ヴィクトル・ユーゴー『ノートルダム・ド・パリ』(邦題『ノートルダムのせむし男』)が出版され、国民に大聖堂復興運動の意義を民意に訴えます。彼は文豪でもありましたが、強い思想をもった政治家でもありました。
序文で 「聖堂そのものもそのうちには、おそらくこの地上から消え去ることであろう。」 と大聖堂の危機を痛切に訴え、『ノートルダム・ド・パリ』 を書いた目的についても、以下のように述べている下りがあります。
「…新しい記念建造物を待ちうける一方、昔からある記念建造物をもまた大切に保存してゆこうではないか。できれば、民族生粋の建築を愛する精神を、フランス国民の胸に吹きこもうではないか。はっきり申し上げるが、これこそ、この本を書いた主な目的のひとつであり、私の一生の主な目的のひとつでもあるのだ。」
1843年、ついに、政府は大聖堂の全体的補修を決定するのです。
1845年~1864年の20年間の歳月をかけて修復された大聖堂は見事に復活しました。
ユゴーが亡くなった時には、200万人もの人々が葬儀に参列して,別れを惜しんだということです。
そして今、彼が挙式を挙げた「サン・シュルピス教会」や、 代表作「レ・ミゼラブル」で何度も登場する「リュクサンブール公園」にほど近い、「パンテオン」で静かに眠っています。