新鋭画家が悪しき「サロン」をぶち破り、自分たちの未来を切り開いていった12年に渡る「印象派展」ここから新しい時代に入った
当時、サロン・ド・パリ(フランス芸術アカデミーの公認展覧会)が権威を振るっていました。19世紀の芸術家にとって、最も権威のある展覧会であり、芸術家にとっては成功への登竜門となっていました。逆に言うと、サロンに出品して受賞しないと、芸術家として生活も成り立たないということでした。受賞の前に、サロンに展示されないことにはどうにもならなかったのです。
もともと、サロン・ド・パリは1667年にルイ14世公認の展覧会として、アカデミー付属の美術学校の卒業生が出品して作品を展示する場でした。しかし次第に目的が変わって来ます。1737年に一般公募を始め、1748年からは展示可否と作品を評価し賞を設けるなど、威信を高めて行きます。
今もほとんどの組織で問題となる既得権と、悪い意味の保守体制を築いて行きます。審査員のための審査員の展示会となって行ったのです。
1863年、ナポレオン3世は騒ぎを鎮めるために「落選展」を開きます。
しかし、芸術の世界でも社会構造の変革が起きてきます。1863年のサロンです。第1回印象派展開催の11年前のことでした。
1863年のサロンでは、5000以上の出展作品から入選したのはわずか2000点余りでした。膨大な作品が出展を拒否され、審査への不満が爆発し、抗議の嵐が吹き荒れます。
この「落選展」では、「草上の昼食」などマネの3作品が最後の展示室に飾られました。
1874年、第1回「印象派展」開催、1881年サロンが終焉を迎える。
11年後の1874年に、ついに、サロンから拒絶され続けた新鋭画家のグループによる展覧会(後に「印象派展」と呼ばれる)が開催されます。
1881年ついにフランス政府がサロンの後援を打ち切ることで、150年にも及んだこの悪しきサロンに終止符が打たれました。「落選展」から18年後のことです。
サロンへの抗議ともいえる展覧会は、サロンの終焉とともに、その役目が終わったかのように1886年の第8回が最後となりました。
時代は1889年にエッフェル塔が完成し、翌1890年パリの万国博覧会が開催され、新しい時代がスタートしました。
8回開催された印象派展
- 1874年。モネが『印象・日の出』を出展し、後に「印象派」と呼ばれるようになる。カイユボットが見学、その後の支援者との交流がスタートした。
- 1876年。カイユボットが『床の鉋かけ』を出展し、以降の印象派展で多額の資金を援助し続ける。
- 1877年。『ムーラン・ド・ラ・ギャレット』ルノワール、踊りの花形』ドガ、『ショケの肖像』セザンヌ、『パリの通り、雨』など多くの傑作が展示された。
- 1879年。ゴーギャンが初めて出展し、画家へ配当が出るなど展示会自体初めて収益が出る。
- 1880年。ドガとカイユボットの対立が表面化し、モネ、ルノワールも不参加となる。
- 1881年。カイユボットは不参加。展示会も失敗に終わる。
- 1882年。今度はドガが不参加となり、わずか画家9名で開催された。ルノワール『舟遊びの昼食』出品。
- 1886年。スーラが『グランド・ジャット島の日曜日の午後』を出品し、後期印象派が登場、これが最後の印象派展となった。