バルビゾン派はフォンテーヌブローの森に集まった写実主義運動の画家たち ほぼ同時期に他界したコローとミレー
バルビゾン派(バルビゾンは、École de Barbizon)は、1830年から1870年頃にかけて、フランスで発生した絵画の一派です。フォンテーヌブローの森のはずれにあるバルビゾン村に多くの画家が集まり、自然を主題として写実的な絵画制作を始めました。
美術史においては写実主義運動のひとつのグループに入ります。
代表的な画家はカミーユ・コローとミレーです。
二人は同じ年に亡くなっています。カミーユ・コローは1875年2月22日没、享年78歳。ジャン=フランソワ・ミレーは1875年1月20日没、享年60歳。
カミーユ・コロー(1796-1875)
時代がコローを評価するまで30年かかった。50歳までは不遇の時代
コローは1820年代から、フォンテーヌブローの森で絵を描きはじめ、1831年にサロンに出品した『フォンテーヌブローの森の眺め』、亡くなるまでアトリエに置いていた『真珠の女』(1868-70年頃)が代表的な作品です。
晩年に至るまでフランス各地を精力的に旅行して風景画を描きました。
また、イタリアには30代、40代、50代と約10年おきに3度滞在し、イタリア各地の風景画も数多く残しています。
1825年から1828年のイタリア滞在では150点以上の絵画を制作
1834年は、サロンで発表するための巨大風景画の取り組みを始め、1835年に制作して、パリ・サロンに出品した《荒野のヘイガー》はセンセーショナルを巻き起こした。その後、サロンからも、世間からも評価されず経済的な支援もない不遇の時代が続きます。
コロー51歳の時転機が訪れる。それはロマン主義の巨匠、ドラクロワ
1847年に、ドラクロワが「コローは真の芸術家だ。対象を深く掘り下げている。」とジャーナル誌に批評が掲載され、ドラクロワの推薦もあり、コンスタン・デュティユーがコローの絵画を購入し、その後長い間パトロンとして支援することになります。
1848年にはコロー自身がパリ・サロンの審査員に選出され、1867年、ついにサロンの役員にまで昇進しました。
当然、コローのアトリエには、弟子となる若者、モデル、画商などがたくさん集まり、アカデミーの重鎮となって行きます。戸外制作における制作とその手法は印象派の画家たちに大きな影響を与えたと言われ、弟子には、カミーユ・ピサロ、ベルト・モリゾなど多くのすぐれた画家がいました。
生涯独身のまま78歳で他界。助けが必要な友人や団体に、多額の援助を続けていた
60歳を迎えた頃から、画面全体が銀灰色の靄の中にいるような独特の色調の風景画を描いています。現実の風景の写生を土台にし、そこに想像上の人物を配した叙情的な風景画が多いのも特徴です。
晩年には、貧しい人々のために2000ポンドを寄付、盲目でホームレスだった芸術家オノレ・ドーミエに家を購入、ジャン・フランソワ・ミレーの未亡人の子どもたちの育児支援に1万フラン、孤児院へ継続的に支援。。。
《真珠の女》1868-1870年
ジャン=フランソワ・ミレー(1814-1875)
ミレーは、農家の人々の日常を描いた作品でよく知られている。
農家の9人兄弟の長男として生まれ、幼少期から10歳で絵画の勉強を始めるまで、実家での農作業体験がのちに作品のベースになっています。
ミレーは最初の結婚でシェルブール、2度目の結婚でル・アーヴルに、そして1850年バルビゾンに移住します。
バルビゾンで制作した『種まく人』が1851年のサロンで入選します。これが農民の悲惨な生活を訴える政治的なメッセージとして、激しい論争の的となりました。農夫の堂々たる姿が、保守派からは厳しく非難される、左派からは農民の美徳と評価されます。
教科書にも載るぐらい、日本では有名な名作となっている『落穂拾い』は1857年に出品しています。描かれた麦の落穂拾いは、当時の農村では貧困の中で生きていくための権利として認められた慣行でした。これもやはり政治的な議論を巻き起こしました。
ようやく、1864年のサロンに出品した『羊飼いの少女』が絶賛され、これを機にミレーの評価は一気に高まり、1867年のパリ万国博覧会では、9点の代表作を展示し、巨匠としての名声を確立します。
バルビゾン派では風景画を好む画家が多い中、ミレーは働く農民の生活への関心が強く、農民を描いた絵を多く制作しています。農民の生活に向き合って、それを真摯に絵画に落とし込んでいった画家でした。この点が農耕民族の日本人に人気を得た理由の一つだと思います。
また、モネ、スーラ、ゴッホなど印象派にも影響を与えた画家です。1888年ゴッホは『種まく人 』を描いています。