印象派画家を理解し、支え続け、数々の名画を世に出したパトロンたち―彼らは分かっていた

芸術活動の進歩と多くの傑作が生まれた裏には、作品を買ってくれたパトロンや美術商の存在があります。

印象派画家が辛酸をなめならも、最後には世に認められ、経済的に自立できて、画業一本で生きていけたのは彼らの存在があったからです。

パトロンはその時代の権力者でした。ローマ時代はローマ帝国が、中世に入ると新古典主義の時代まで君主と並んでキリスト教会が権力を持ちます。ルネサンスからはギルド、そこに貴族も加わります。産業革命を経て、ついに市民が買える時代になりました。でも、市民がパトロンになったのは最近のことです。

印象派に大きな影響を与えたパトロン3人をご紹介します。

  • ヴィクトール・ショケ 作者:ピエール=オーギュスト・ルノワール
  • ポール・デュラン=リュエル 作者: ピエール=オーギュスト・ルノワール
  • ジュリアン・タンギー  作者:フィンセント・ファン・ゴッホ

ヴィクトール・ショケ(1821-1891)

ヴィクトール・ショケは支援がなかった印象派を最初に支援した一人です。

関税・間接税局の官吏だったので稼ぎは少なかったにも関わらず、オークションで得た収入で、ドラクロワ、モネ、セザンヌなど数多くの作品を購入したり、美術展覧会を訪れては印象派画家を支援しました。

ショケが印象派の作品に出合ったのは「タンギー爺さん」の画材店でした。

また、1875年のドゥルオーの競売会で、ほとんどの画家と交流を持っています。

例えば、ショケが住んでいたアパルトマンで、モネが『テュイルリー庭園の眺め』(1876年)など作品を制作していたり、印象派画家によるショケの自画像もたくさん残っています。

印象派画家との深い交流があったことは、彼の死後に発見された絵画が物語っています。そのコレクションにはセザンヌ32点、モネ11点、ルノワール11点、マネ5点など多くの作品が発見されました。

ポール・デュラン=リュエル(1831-1922)

デュラン・デュラン=リュエルは、印象派の最も著名な画商であり、支援者でした。

ヨーロッパに留まらず、アメリカの市場開拓に成功しました。

もともと美術商の家に生まれた、いわば生粋の画商です。

彼は1860年代はバルビゾン派を支援していたことで有名でした。その後1870年代に入ると当時無名だったモネ、ルノワール、ピサロ、ドガの作品を積極的に購入し始めました。

扱った印象派の作品数は、モネ1000点、ルノアール1,500点、ピサロ800点、シスレー400点、メアリー・カサット400点、マネ200点など、5,000点以上に登ったとのことです。

実は1870年に晋仏戦争勃発のため、ロンドンに避難していた時に、モネ、ピサロなどたくさんのフランス人画家と出会っています。この時にすぐ彼らの才能を見込んだんですね。この先見性がすごいのだと思います。

デュランは、ニューヨークに支店を設け、印象派をアメリカ合衆国へも売り込みました。またロンドンで展覧会を開くなど、印象派の人気を高めるために大変な貢献をしました。その証拠に、モネのジヴェルニーには当時から多くのアメリカ人が訪れています。

ジュリアン・タンギー(1825-1894)

タンギー爺さんは気難しくて、貧乏だったゴッホの最大の理解者でした。

タンギー爺さんはゴッホの葬儀に参列した数少ない人物でもおあります。

ジュリアン・フランソワ・タンギーは画材屋兼画商でした。

彼の店には印象派やポスト印象派の無名画家が多く出入りしており、「タンギー爺さん(ペール・タンギー)」の愛称で親しまれていました。

特に、ゴッホの絵を飾って、画材代を融通してあげるなど、貧しい芸術家に対して、絵画で画材代の支払いを認めていました。

ゴッホはこの心優しいタンギー爺さんの肖像画を3枚残しています。

最後にギュスターヴ・カイユボットも忘れてはいけないかもしれません

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