ギュスターヴ・カイユボット 28歳で「印象派絵画を政府に寄贈する」と遺言を残し、印象派画家と印象派展を支え続けた
カイユボットは日本ではそこまで有名ではないと思います。印象派画家の一人ではありますが、印象派画家を支援したパトロンとして大変重要な人物として知られています。
カイユボットは1848年にパリで生まれました。1840年前後に生まれているクロード・モネ、ルノワール、セザンヌ、モリゾらとは10歳ほど若く、後に対立することになるエドガー・ドガは1834年生まれなので14歳違います。
父は軍服製造業と不動産を経営し、大きな成功を収めた実業家でした。裕福な上流階級だったので、1860年から一家はパリ南郊のイエールの広大な場所で夏を過ごします。カイユボットは、この頃から絵を描くようになり、ボートやセーリングをして遊びました。ここイエールの土地は一般公開されています。
1866年、一家は上流階級の住宅地として新たに造成された地区、ミロムニル通りに引っ越します。カイユボットは後に2階にアトリエを作り、数々の名作を描き上げることになります。
その後、エリート養成機関に通った後、1868年に法学部を卒業し、1870年には弁護士免許を取得します。その直後、普仏戦争で徴兵され、国民動員衛兵として従軍し、この辺りから絵の勉強に励んでいったようです。
カイユボットは1874年に第1回印象派展を見学し、はじめてドガ、モネ、ルノアール、シスレー、ピサロと出会う
同年には父の死去に伴い、26歳で大きな遺産を相続しました。お金には不自由することなく、ますます絵画に励で行きます。
1875年、27歳の時、初期の代表作『床削り』をサロン・ド・パリに提出しますが、結果は「低俗」であるとサロンから拒否されます。この時から、カイユボットはサロンとの決別して、好きなように絵を描き、印象派画家と行動を共にし、特に金銭面において彼らを全面的に支援し続けます。
1876年、第2回印象派展に参加し、サロンで非難を浴びた『床削り』を出展すると、極端な遠近法と、都市労働者の情景として大いに注目され、大変気をよくします。
しかし、この後すぐ下の弟ルネが25歳で急逝します。
さらに末の弟マルシャルも57歳で亡くなり、当時にしてもかなり若くして兄弟全員が亡くなるのです。父と弟の死で、生と死の考え方、特に生の儚さを感じていたのでしょうか。21歳で晋仏戦争に参加した体験も影響しているでしょう。また何よりも「印象派絵画を世に認めさせたい」との思いが強かった。。。
カイユボットは28歳の若さで「死後69点の美術品をフランス政府に寄贈する」との遺言を残します。
「非妥協派または印象派と呼ばれる画家たち」の展覧会の準備資金に、自分の遺産から相当額を割り当てること、ルノワールと弟のマルシャル・カイユボットを遺言執行者に指名すること、自分の絵画コレクションを国家へ寄贈すること。。。
カイユボットは自身の運命を予感していたのでしょう。45歳の若さで亡くなります。
カイユボットは翌1877年の第3回印象派展から、印象派展を推進していきます。
第3回印象派展で「パリの通り、雨」を公開しました。評論家は挙って「彼の最高傑作だ」と評します。ゾラにしては「印象派随一の画家と記憶されても不思議ではない」とまで言わせました。しかし、裏腹に絵画全体の売上は芳しくなかったようです。
この頃から、カイユボットは14歳上のドガと意見が激しくぶつかるようになり、後に新印象派と言われるグループとの間で亀裂も生じて行きます。
ついに印象派展は1886年の開催を最後となります。第1回開催から12年後のことでした。
それからというもの、カイユボットは自身の作品を発表していません。
1888年に、既に購入していたセーヌ湖畔プティ・ジュヌヴィリエに移り住み、絵画のほか庭園作りとヨットをやりながら、弟マルシャルや友人ルノワールとの付き合いを楽しんだと言われています。余生を満喫していたようです。
そして、1894年、園芸作業中肺鬱血により死去しました。
カイユボットは生涯一度も結婚はしてませんでした。でも彼が死を迎えるまで、シャルロット・ベルティエという女性(上の一番右の絵に描かれている女性)とここプティ・ジュヌヴィリエで過ごしています。彼女にも相当の遺産を残しています。
カイユボットの遺言書には続きがあります。大きなスキャンダルを巻き起こすのです。
カイユボットは、遺言書の中でルノワールと弟の「マルシャル・カイユボットを遺言執行者に指名すること、自分の絵画コレクションを国家へ寄贈すること」と綴っています。
しかし、寄贈の条件として「コレクション全体を受け入れること、屋根裏部屋でも、地方の美術館でもなく、リュクサンブールへ、後にルーヴルへ収めるように」と明記されていました。これが後に大変な物議を呼ぶこととなりました。
コレクションは、セザンヌ、ドガ、マネ、モネ、ピサロ、ルノワール、シスレーなど生前親しかった画家の作品と、ジャン=フランソワ・ミレーのデッサン2点、合計69点もの作品でした。
1894年3月、ルノワールは美術大臣に遺贈の件を伝え、いったん、美術館諮問委員会でリュクサンブール美術館への受入れが認められました。
芸術アカデミーの会長が「カイユボットの遺言」に対して猛烈に反対します。
「国がモネ氏、ピサロ氏といったごみのようなものを受け入れたとなれば、道義上ひどい汚点を残すことになる」と述べています。リュクサンブール美術館館長も「69点もの絵画を展示するスペースはないし、作家一人当たり4点以上の作品は展示しない方針だ」と主張します。
政府は、「リュクサンブールは展示できる作品だけを受け入れ、残りはマルシャル・カイユボットの財産とする」ことで妥協を図り、選定委員会が設けられた結果、1896年、ようやく、40点が選ばれて美術館に受け入れられます。
1897年2月、ようやくカイユボットが残した40点の作品は、リュクサンブール美術館の増設されたギャラリーに展示されました。
- ルノワール『ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏場』1876年
- マネ『バルコニー』1868-69年
- ドガ 『踊りの花形』1878年)
先に買い上げられていたマネの『オランピア』やルノワールの『ピアノに寄る少女たち』とともに。
なおマルシャルの財産となった残り29点は、後にアメリカ人美術収集家の手に渡り、現在はフィラデルフィアのバーンズ財団が所有しているとのことです。