ルーヴル美術館は入場者数世界一 途方もなく広い 何周も巨大なドームの階段を上り下りするような
チケットの取り方、効率的な入場の仕方、鑑賞する時間帯、お目当ての美術品のルートなど、よーく下調べしてから行って下さい。
常設展示室の総面積は6万6000平方メートル(66,000m2)以上ということです。
東京ドームは46,755m2(グランドだけだと13,000m2)、周囲は766m。
東京ドーム1.5倍程の大きな建物の中を、人込みを掻き分けて、美術品を鑑賞しながら上がったり下がったりしながら何周もする。。。こんな感じでしょうか。私も美術品を見ることは好きですが。。。
さすがにルーヴル美術館は広すぎて、ずっと歩かされてしまい、すぐくたくたになってしまいます。中は迷路のごとくで、いつも自分のいる位置と目的の美術品までのルートがわからなくなります。ストレスのが。。。。 敷地の広さ、展示物の多さに加えて、たくさんの観光客です。これも疲れる原因です。入場者は年間1000万人を超えるということです。
でも毎回それなりに楽しませていただいていますし、私たちも多くの観光客の一人です。愚痴はこの辺にしておきます。いつか、1週間毎日少しづつ通ってみたい。
ルーヴル宮が美術館となってから歴史をサクッと
1687年、王室美術品コレクションの収蔵、展示場所となり、徐々に美術館としての準備が出来上がっていく
王宮がヴェルサイユ宮殿に移ってから、ルーヴル宮殿の主たる役割は、王室美術品コレクションの収蔵、展示場所となり、1692年、フランス学士院碑文・美文アカデミーと王立絵画彫刻アカデミーが収容され、1699年に最初のサロンが開催されます。
1793年8月10日、12世紀に建設されたルーヴル城(ルーヴル宮殿)をルーヴル美術館として開館
721点の美術品、内絵画が537点でした。1793年8月1日はルイ16世処刑の一周年にあたります。
開館わずか10日前の1793年7月27日には、ロベスピエールが公安委員会に選出され、恐怖政治に突入して行く時代です。もともと美術館の開館はルイ16世下で推し進められていたものです。開催日をルイ16世処刑の一周年としたのは、革命派の政治的な目的があったのでしょう。
その後、各時代を経て、遺贈や寄贈などによって所蔵品は着実に増加
王政復古(1814年-1830年) →フランス第二帝政(1852年-1870年) →第三共和政(1870年―1940年)
『サモトラケのニケ』は1884年に展示されています。
1874年、現在のシュリー翼、リシュリュー翼、ドゥノン翼の3つの構成が完成
1983年、財務省が移設され、宮殿全体が美術館となる
大統領ミッテランの「パリ大改造計画」の中で、建物が改築されます。
そして、あのガラス製のピラミッドは1988年10月15日に完成し、開館から200年余り経ち、現在の貯蔵品は約40万点、500倍となっています。
ルーヴル美術館の入場者数はやっぱり世界一
2019年度のベスト5を調べてみると、やっぱりルーヴル美術館がダントツの1位です。しかも2位以下との差は年々広がっています。
- ルーブル美術館:約10,200,000人 フランス(パリ)
- メトロポリタン美術館:約6,950,000人 アメリカ(ニューヨーク)
- バチカン美術館:約6,760,000人 バチカン
- テート・モダン:約5,870,000人 イギリス(ロンドン)
- ナショナル・ギャラリー:約5,730,000人 イギリス(ロンドン)
2018年に入場者が1000万人を超えた翌年の2019年には、労働組合が「ルーブルは窒息状態」とする声明を発表し、「入場者は2009年以来、10年で20%以上増えたが、美術館は何も改善されていない。我々は現在の状況は維持できない。」と訴えています。
館長のジャン=リュック・マルティネズは「ルーヴルがとても人気のある美術館であることを大変嬉しく思います。しかし、我々のゴールはより多くの来館者を集めるだけでなく、すべての来館者により良い環境を提供することです」とコメントしています。
でも益々入場者数が増える状況で、タイムチケット以外に打つ手はない状況です。
2020年のコロナ禍を機に、新たな戦略を考えざるを得ないでしょう。
なお、ベスト5にイギリスの美術館が2つ入っています。入館料無料など、美術館を中心としたビジネス戦略が効果を発揮しているように思います。イギリスは18世紀まで著名な芸術家をひとりも輩出していません。大英帝国としてのコンプレックスがベースにあるのではないでしょうか。
ルーヴル美術館と印象派画家、そしてモネ
印象派の絵画として「オルセー美術館」が有名ですが、ここ「ルーヴル美術館」にも、たくさんの印象派の絵画が展示されています。カルロス・デ・ベイステギ、エレーヌ、ヴィクトール・リヨン寄贈と彼らの意思によって、オルセー美術館へ移動しなかった多くの作品があります。
ルーヴル美術館は、長い間、芸術家の勉強の場であり、画家たちの出会いと交流の場でもありました。マネとモリゾも初めての出会いは「ルーヴル美術館」です。
またモネが25~26歳の時、パリで二度目の万国博覧会が開催された1867年の初め、ルーヴル美術館2階にある有名なコロナードのバルコニーから窓から3枚の絵を描いています。当時の先駆的な画家たちが取り組んでいた戸外制作作品として、1860年代のモネを代表する作品とされています。
『サンジェルマン・ロクセロワ教会』ルーヴル美術館の東側(裏側)にある教会を描いています。(現在ベルリン美術館)
『ルーヴル美術館の王女の庭園』遠方にはパンテオンが、左手にはノートルダム大聖堂が描かれています。(現在、アメリカ合衆国のオバーリン大学アレン記念美術館)
『ルーヴル河岸通り』はルーヴル美術館の南側、この絵にもパンテオンが見えます。(オランダのハーグ私立美術館)
1674年、王立絵画・彫刻アカデミーが「ルーヴル」のサロン・カレ(方形の間)で初の展覧会を開催し、1725年の第1回目のサロンもここルーヴルから始まっています。また1737年以降もほぼ定期的にサロン・カレで開催たことで、「サロン」という名前が芸術アカデミーの公式な展覧会と認識されて行きました。
サロンについては下のページで少し書いています。是非ご覧ください。