金沢2日目 金沢城と白鳥路 芸術と建築技術に対する金沢市民の強い想いを感じる
白鳥路 →金沢城 →石川県観光物産館 →近江町市場でランチ →兼六園 →生活工芸ミュージアムと廻り、夕食を食べて、旧制第四高等学校を左手に、中央公園通りの並木道の紅葉を見ながらホテルへ
石川県観光物産館では私と違い交友関係の広い妻がたくさんお土産を買っていました。私は自分のおつまみだけ。
私の目的は外にある喫煙所で一服。お土産が全て揃っていて、この辺りで唯一喫煙所が付いています。目の前にはバス停もあって大変便利ですした。
近江町市場には11時頃に着きました。なんと1階の店は全て行列。仕方なく2階の飲食店街へ。2階もどんどん人が増えて12時にはもう行列でした。昼食を食べ終わり帰ろうとすると、牡蠣の立ち食いがあったので、妻が試しにと大1個食べました。「800円と値段の割には今一つ」と物足りなかったようです。
白鳥路ー「水と緑と思索の道」と命名された散策路
金沢城の手前にある「外濠公園」から「水と緑と思索の道」と命名された300mほどの散策路を歩きました。江戸時代まで「白鳥堀」という名のお堀だったということです。
「金沢の11月は雨が多い」と聞いていましたが、旅行の間、珍しく晴天が続きました。この朝も朝陽が照りつける中、左右には緑の木々が生い茂り、「三文豪像(室生犀星、泉鏡花、徳田秋声)」をはじめ何体もの銅像が並んでいました。ゴールでは「前田利家公の銅像」が出迎えてくれます。なにか美術館の中を歩いているような感覚です。金沢市民の芸術への想いを感じました。
当時「三文豪のブロンズ像完成 白鳥路で28日除幕」の見出しが載ったとのことです。
三文豪のブロンズ像完成 白鳥路で28日除幕
金沢市が同市外濠公園白鳥路に1500万円をかけて設置する同市出身の三文豪・徳田秋声、泉鏡花、室生犀星のブロンズ像が完成し22日午後、白鳥路中ほどの文豪像ゾーンに据え付けられる。三文豪の親族と連絡を取り合いながら。。。
北國新聞縮刷版 昭和60年10月号
「前田利家公の銅像」で右折すると金沢城です。
しかし、石川門があるはずの場所に来ても、門らしきものが見当たりません。しばらくすると散歩中のおじさんが「石川門に行くならその角まで戻って、上に上がるんだよ。」とご親切に教えてくれました。確かに見上げると真上に門らしきものが見えました。トホホです。気を取り直して、一旦戻って、石川門へ向かいました。
いざ金沢城へ 左右に兼六園と金沢城の石川門の入り口 どっちも行ける
お洒落な裁判所のある角から道路を渡って、坂道を登って行くと。。。
左は兼六園入口、右手は金沢城の石川門と左右に分かれる場所まできました。もともと兼六園はお城の外庭なので、金沢の2大観光スポットがセットになってます。
約230年前の姿そのまま残っていると言われる石川門。門は2重になっていて、門と門の間には「粗加工石積み」→「切石積み」と、見ただけではっきりわかる、全く異なる様式の石垣が並んでいます。金沢城の至る所で様々な石垣を見ることができます。
写真は、お洒落な「裁判所」 → 左右に兼六園と金沢城の入り口 → 石川門 →「粗加工石積み」→「切石積み」
金沢城の歴史からも「金沢の文武の中心」であることがわかる
- 1583年 加賀初代藩主前田利家が能登から入城し、城造り開始
- 1602年 落雷で天守が消失 (天守は2度と作られなかった)
- 1631年 大火災後、武家屋敷を城外へ移設
- 1759年 大火災で城はほぼ全焼。その後、二の丸を中心に整備開始 (本丸は2度と再建されず)
- 1788年 「石川門」再建
- 1898年 「陸軍第九師団司令部」移設
- 太平洋戦争 -
- 1949年 「陸軍第九師団司令部」の建物を改修して「金沢大学」キャンパス設置
- 2001年 「菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓」を再建
- 2005年 医学部を除く金沢大学の全学部が移転
- 2008年 金沢城が国指定史跡となる
石川門の中に入ると、三の丸広場が広がり、正面に五十間長屋、右に河北門が見えます。広いです。
どう歩いたらいいのか分からず、とりあえず三の丸広場と河北門の間の道を進み、菱櫓を見あげながら、二の丸広場の内堀に沿って、紅葉を見ながらしばらく歩ていくと「玉泉院丸庭園」の看板が見えました。
玉泉院丸庭園 石垣も全体の構成の一部
二代目藩主利長の正室玉泉院(永姫)がその名の由来、三代目藩主利常が1634年に庭作を始め、歴代藩主によって整備された。2015年、江戸時代末期の姿をもとに再現し、高低差のある立体的な構成、色紙短冊積石垣をはじめ意匠性の高い石垣郡などが特徴。。。
金沢城ホームページの解説を要約
下に降りて行くと、徐々に庭園が見えてきます。下から全体を見渡すと、茶室と休憩所、前には庭園と池、それを石垣が囲んでいます。上の解説にあるように「色紙短冊積石垣をはじめ意匠性の高い石垣郡」など石垣を構成の重要な要素となっていることがわかります。
降りてきた階段を登って、次は菱櫓、五十間長屋、橋爪門続櫓です。
菱櫓、五十間長屋、橋爪門続櫓 日本古来の木組み工法
菱櫓(ひしやぐら)五十間長屋(ごじっけんながや)橋爪門続櫓(はしづめもんつづきやぐら)と読みます。菱櫓と橋爪門続櫓を両脇に、五十間長屋がデンと構えた構造で、長さ約100メートルに及ぶ「二の丸御殿」を守るための砦です。
「1631年の火災から、本丸機能が次第に二の丸へ移されて行き、これに伴い菱櫓、五十間長屋、橋爪門続櫓が整備され、17世紀の終わりには二の丸は壮健な建物となり、「千畳敷の御殿」と呼ばれた」
菱櫓 二の丸で一番高い三層の物件櫓。尾坂門、河北門、石川門を一望できる。。。
橋爪門続櫓 二の丸大手の橋爪門枡形に付随する三層の物件櫓。三の丸で戦闘が起きたときの指揮所。
五十間長屋 菱櫓と橋爪門続櫓を結ぶ二層の多聞櫓。普段は倉庫として。。。非常時は戦闘のため。。。
パンフレットを要約
橋爪門は二の丸の正門です。天守閣を持たない金沢城では二の丸が本丸の役割を担っていました。
入ると橋爪門続櫓→五十間長屋→菱櫓の順です。橋爪門続櫓には石落がありました。そして五十間長屋です。そして菱櫓の2階へ
写真は、入口正面 → 石落とし → 五十間長屋 → 天井 → 木造軸組工法 →菱櫓の2階
釘やボルトを1本も使わず、日本古来の木造軸組工法と呼ばれる木組みの工法で再建され、耐力壁によって、耐震性にも優れています。
五十間長屋では、木組みの工法として、柱と柱を繋ぐ横木を組み合わせる仕組みが展示され、しかも天井のスクリーンで動画を流すなど、十分な説明をしてくれています。
資料と史実に従って、日本古来の伝統工法により建設されたもので、耐用年数はなんと200~250年ということです。