金沢3日目その2 忍者寺とも言われる妙立寺と江戸の面影を残す長町武家屋敷へ
大通りを「にし茶屋街」に向かって歩いて行くと大きな橋がありました。登録有形文化財として登録されている「犀川大橋(さいがわおおはし)」です。この橋は1922年(大正11年)の豪雨で流され、2年後の1924年に総工費26万7000円で完成したというものです。これまでに5回塗り替えられてきたそうです。1966年に鼠色から薄いカーキ色 →1975年に白系クリーム色 →1984年に黄緑色 →1993年に青灰色系五色グラデーション →2008年に現在の青緑色
犀川大橋を渡り切ると、すぐ「にし茶屋街」があります。「ひがし茶屋街」、「主計町茶屋街」は初日に行きました。ここがもう一つの3大茶屋街となります。「資料館」など見学して「妙立寺」へ向かいました。
妙立寺はガイドざんによる見学ツアー 完璧な仕組みに感心する
妙立寺は、加賀藩3代藩主の前田利常が金沢城近くから移築建立した日蓮宗の寺で、複雑な建築構造と外敵を欺く仕掛けから、別名「忍者寺」と呼ばれます。「拝観は要予約」とあったので、前日、1時で予約しておきました。
天正13年(1583年)、藩祖前田利家が金沢城に入城すると、政治の理念を日蓮宗・法華経の中道精神に求め、藩を守護する祈願所を建立した。寛永20年(1643年)、三代藩主利常が金沢城の近くから移築建立する。・・・多くの武士が起居できる寺院群(現在の寺町寺院群)を新築し、その中心に監視所(城でいう本丸)として妙立寺を建立する。要塞としての機能を備えた妙立寺は、隠し階段・隠し部屋・落とし穴・見張り台・金沢城へ続く地下通路など外敵を欺く種々な仕掛けを備える。・・・建造は、日蓮の法孫、日像と伝えられる。戦火を免れた妙立寺は、歴代藩主の祈願所として崇拝される。北陸の豪雪に耐え、その独特の建築様式を現在に伝えている。 そこから今の人気スポットとなっている。・・・堂内は撮影・土足禁止、禁煙で、建物の複雑さと老朽化から、見学は予約制で案内人同伴による団体(集団)見学となる。保存護持費として、大人1000円、子ども700円が要求される。未就学児は見学不可。また、荷物等が当たって建物を損なうことがあるため、背中側におく荷物は持ち込めない。
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落とし穴になる賽銭箱、床板をまくると出現する隠し階段、金沢城への抜け道が整備されていたとされる井戸などの仕掛けが、寺のあちこちで見られました。創建当時、徳川幕府と緊張状態にあったため、襲撃に備えて多くの仕掛けが施されたとのことです。なかなか面白かったです。
最初、中に案内され、説明を受けた後、20名のグループ単位で、順次ガイドさんの指示に従って見ていきます。後ろを振り向くとすぐ近くに次のグループが来ています。全く無駄がなく流れるようにゴールします。30分毎に100人程度見学できるということなので、ざっと計算すると1日1000人です。
「保存護持費として大人1000円」とありました。5年前の2915年の入場者数が25万人です。拝観料1000円でなんと2億5千万円。。。維持費としては相当は売上ですね。
「妙立寺」を後にして、もう一度「犀川大橋」を渡って、「長町武家屋敷」の一つ「前田土佐守家資料館」まで約1キロメートルです。
長町武家屋敷は江戸時代の土塀や石畳の小路
「長町武家屋敷」の界隈は、加賀藩の上中流武家の屋敷があり、土塀と石畳の小路が当時の面影を残しています。
「前田土佐守家資料館」では、加賀藩祖前田利家の次男前田利政を家祖とする前田土佐守家が所蔵した、歴史研究として大変重要な歴史資料が数多く展示されています。利政は能登国22万石余りを領有していましたが、関ヶ原の戦いで徳川家康の出兵要請に応じず、領知を没収されます。しかし、2代当主直之は、幼少時に祖母芳春院(まつ)にひきとられ、12歳の時、3代藩主前田利常に召し抱えられ、その後は「八家」の一つとして1万余石の禄高を領有し、10代当主直信の時に明治維新を迎えました。前田利政所用と伝わる具足、刀、芳春院(まつ)の直筆書状、織田信長の刻印状(ここで最も古い文書の一つで、上杉氏と対峙する越中陣中から信長に帷子(かたびら)を贈ったことに対する礼状)等々。
「武家屋敷跡野村家」の池泉回遊式庭園は屋敷をL字型に囲んでします。ため息が出るほどの美しさでした。野村家は前田利家の家臣野村伝兵衛信貞を家祖とし、加賀藩の奉公職を11代歴任しました。3,000平方メートルの敷地の一部が今も見事な庭園として残っています。
この後、もう一度、近江市場へ行って、お寿司を食べてました。美味しかった~。一旦ホテルに戻ってから、兼六園の夜景へ。