パブロ・ピカソ 70年に渡り、世界に衝撃を与え続けた「20世紀アートの巨匠」とキュビズム

91歳の長寿を全うし、次々とスタイルをドラステックに進化させながら、20世紀初頭から膨大な作品を描き残します。1万3500点の油絵と素描、10万点の版画、3万4000点の挿絵、300点の彫刻と陶器を制作し、美術品の数で『ギネスブック』に載っています。
私生活もドラステックです。2度の結婚と7人の愛人。。。妻と愛人との間に4人の子供がいます。
才能の芽生え 18歳まで
1881年、パブロ・ピカソはスペインのアンダルシア州の港町マラガで生まれました。
ピカソの基礎を作ったのは父親だと言われます。父親は美術工芸学校の講師でした。幼少期から美術に触れる機会は多く、7歳のときから、父からドローイングや油絵の正式な訓練を受け、その才能は発揮されていきました。
1895年(14歳)、妹コンチータがジフテリアで亡くなります。ジフテリアは現在は先進国ではほとんど症例がない急性伝染病となっていますが、当時は感染すると5歳以下の死亡率が極端に高いので、あっという間に亡くなってしまったんでしょう。
その後一家ははバルセロナに移りました。ピカソは、まもなくマドリードのサンフェルナンド王立アカデミーに進学します。マドリードには世界三大美術館とも言われるプラド美術館があります。プラド美術館と言えば、バロック期の巨匠ディエゴ・ベラスケス、フランシスコ・デ・ゴヤ、エル・グレコです。ピカソはよく通い、彼らの作品に魅入っていたと言われています。
1896年(15歳)、「初聖体拝領」を描きました。妹がカトリック信者となるキリスト教の儀式を描いたものです。ピカソの父も男性像のモデルとして登場しています。後に「私は15歳にて既にベラスケスのように描くことができた。そして子供のような絵を描くまでに80年もかかったのだ。」と語った逸品です。
1897年(16歳)、マドリッドで開かれた国典で金賞を受賞します。「生と死」をテーマとし、医者、病人、尼僧と尼僧に抱かれた子供、4人の登場人物で描き上げた「科学と慈愛」でした。ピカソの父親は医師として描かれています。どう見ても、同じ作者であることがわかります。
初聖体拝領(1896年) 科学と慈愛(1897年)


青の時代 19歳から22歳
1900年(19歳)、パリ万博の年、友人である画家カサヘマスと連れ立って、初めてパリを訪問します。その後もバルセロナとパリを何度か行き来ています。
1901年(20歳)、パリに移住します。バルセロナで既に2回個展を開いていましたが、パリでも小さなギャラリーで個展を開催しました。
まもなく、友人カサヘマスが恋人とのいさかいが原因で拳銃自殺を図ります。この時ピカソはパリを離れマドリードにいました。親友の死を悼むために何枚も絵を製作するのですが、これが「青青の時代」のきっかけだったとも言われています。
友人の死を境に青色で描くようになって行きました。「青色」によって悲劇的で憂鬱な側面を盲人や乞食の人物を介して、社会や人生の悲哀、苦悩、不安、絶望、貧困を描きだしました。
西洋絵画の伝統において、青は「神の色」「高貴な色」として使われ、負のイメージで表現されたことはありませんでした。当時の人々が持つ青のイメージは「憧れ」「希望」の色でした。ピカソは、憂鬱で悲しみに満ちた中に、気品や深い精神性を感じさせました。
2018年、ポーラ美術館がワシントン・ナショナル・ギャラリーとの共同調査にて、「海辺の母子像」の下層部に「新聞紙」の貼付を発見しました。ポーラ美術館では、既に2005年にX線透過写真等による調査の結果、下層に隠れた絵画の存在が判明していたのですが、2018年の調査で、『ル・ジュルナル』紙(フランス、1902年1月18日号、3頁)と特定されました。ポーラ美術館のホームページには「成分情報を非破壊・非接触で得られる「ハイパースペクトル・イメージング・スキャナー」を使い、この調査は今後のピカソ研究の発展に大きく貢献している」などと記されています。
人生(ラ・ヴィ)はカサヘマスとその恋人ジェルメールの悲劇を描いた作品です。
死せるカサへマス(1901年) ピカソの自画像(1901年) 海辺の母子像(1902年) 人生(ラ・ヴィ)(1903年)




バラ色の時代 23歳から25歳
1904年(23歳)、モンマルトルの「洗濯船」と呼ばれる家賃の安い長屋に居を構えます(この約10年後、この名をとって「洗濯船」というアーティストグループを立ち上げました)。ピカソの絵はしだいに暖かい色調となり、サーカスの旅芸人やその家族を多く描いています。
1904年(23歳)、人生初めての恋人、当時アートモデルをしていたフェルナンド・オリビエと知り合います。
青一色からバラ色を中心とした明るい色彩を用いていたため「バラ色の時代」と言われます。既にこの頃から評価が高まり、ピカソの名が知られることになります。
パイプを持つ少年(1905年) 玉乗りの曲芸師(1905年) 1910年頃の洗濯船



キュビズムの時代 26歳から35歳
1907年(26歳)、「アヴィニョンの娘たち」を描き上げ、キュピズムの時代が始まります。
娼婦宿が建ち並んでいたバルセロナのアビニヨー通りがこの絵の名前の由来です。左の女性の顔は古代エジプト彫刻、中央の2人の顔はイベリア彫刻(古代スペイン彫刻)、右の2人の顔はアフリカ彫刻の影響だと言われます。右手前の女性に体は背を向けていますが、顔は正面を向いています。全ていったん解体して、もう一度様々な視点から構成し直しています。
1911年(31歳)、モンパルナスへ居を移した頃、エヴァ・グエルに出会い、結婚の直前まで行きました。
しかし、彼女は1915年にまもなく結核で亡くなっています。
キュビズムとは
「キュビズム(立体主義)」はピカソとジョルジュ・ブラックが共同で生み出したものです。ブラックが描いた風景画が「小さなキューブ(立方体)による絵のようだ」と評されたことが語源といわれます。目指すものに共通性を感じたピカソとブラックは、共同でキュビズムを作りあげ、空間の遠近法や明暗法などルネサンス以来の常識を根本から変えました。現代絵画の出発点ともいわれます。
ジョルジュ・ブラック(1882年5月13日 – 1963年8月31日、享年81歳)
ピカソと同じく、1900年にパリに出てモンマルトルに移住しています。
1907年、ピカソのアトリエを訪れ『アヴィニョンの娘たち』を見たことで衝撃を受けます。1908年、「小さなキューブ」と評された『レスタックの家々』、自身最初のキュビスム的作品と言われる『家と木』を製作します。セザンヌへの取り組みからキュビスムへ発展したと言われるように、セザンヌ的な構図でキュビスム的な描き方となっています。『家と木』はセザンヌの風景画のように遠近の構図に、家は立方体(キューブ)で表現されています。アフリカ芸術への取り組みから始まったと言われるピカソとは全く違います。
1909年の冬から春にかけて、ピカソとブラックは初めての共同作業を始めることになる。1912年までピカソと密接に共同制作しており、両者の作品の区別が付かないものも多数あると言われています。
ピカソの31歳までを分析的キュピズム、31歳から38歳までを総合的キュピズムと言われています。
分析的キュピズムは茶色がかったモノクロと中間色が特徴で、小さな切子面に分解し、再構成しています。総合的キュピズムは新聞の切り抜きやた壁紙など身近にあるもので構成されているのが特徴です。下の左2枚は分析的キュピズム、右2枚が総合的キュピズムです。どうですかわかりますか?ようく見ると右の2枚には文字が入っているのが分かります。
アヴィニョンの娘たち (1907年) マンドリンを持つ少女(1910年)素人闘牛士 (1912年) ブルゴーニュのマール瓶、グラス、新聞紙 (1913年)




新古典主義の時代 36歳から43歳
1917年(36歳)、ジャン・コクトーの依頼で「ロシア・バレエ団」の美術と衣装を手掛けることになります。
1917年(36歳)、バレリーナ、オルガ・コクローヴァと知り合い、1918年(37歳)に結婚します。
1921年(40歳)には初めての息子パウロを授かりますが、1922年には既に疎遠な関係になり、オルガは南フランスに移住してしまいます。
ピカソはまもなくキュビズム的表現を一変させ、古典の絵画制作を始めます。古代の衣装をまとった女性像や微笑ましい母子像など実的な表現で描くようになりました。オルガは旧ロシアの将軍の令嬢で、気品があり古典的な美しさを持つ女性だったようです。古典の絵画を描いた原因はオルガとの結婚だといわれています。
オルガの肖像(1917年) 海辺を走る二人の女(1922年)腕を組んで座るサルタンバンク(1923年)



コクトーは、詩人、小説家、劇作家、評論家、画家、映画監督、脚本家とその多彩さから「芸術のデパート」とまで呼ばれた芸術家です。1945年には代表的映画作品『美女と野獣』を監督しています。1963年10月11日、シャンソン歌手、エディット・ピアフ死去の報を聞いたコクトーは、同じ日の夜就寝中に心臓発作で亡くなくなりました。ピアフの後を追うように。。。
シュルレアリスムの時代 44歳から55歳
1925年(44歳)、人間の奥底に隠された無意識や夢の世界に芸術表現の領域を拡げたと言われる「シュルレアリスム」に影響を受け、想像力が駆使された超現実主義的な手法で、現実には存在しない非現実的な人物や世界を描くようになります。
「シュルレアリスム」、日本語では「超現実主義」。1924年、ブルトンの宣言(『シュルレアリスム宣言・溶ける魚(Manifeste du surréalisme/Poisson soluble)』)で次のように定義したことで、本格的な運動が始まりました。
心の純粋な自動現象であり、この自動現象にしたがって、口述、記述、その他あらゆる手段を用いながら、思考の実際の働きを表現することを目指す。理性によっておこなわれるどんな制御もなく、美学的、道徳的な一切の懸念からも解放された、思考の書き取り。
Manifeste du surréalisme/Poisson soluble)
フロイトの精神分析理論とマルクスの革命思想を思想的基盤とし、人間の無意識に芸術の根源を見い出し、現実の奥に隠された「現実を超える現実」を表現することで、真の自由の獲得と人間の全体性の回復を目指したものです。詩人を中心とする文学運動として始まり、画家、写真家、映画など芸術運動に留まらず、物の見方や生き方にまで広がる哲学的運動としても発展して行きました。
なお、日本語の「シュール」は「現実離れした奇抜で幻想的な芸術」という、日本独自の概念・表現です。
1927年(46歳)、17歳のマリー・テレーズ・ウォルターに出会います。
しかし、ピカソが新たな愛人(写真家ドラ・マール)を作り、マリーが1935年に娘を出産した直後に破局します。
1935年(54歳)、ドラ・マール(29歳)と愛人関係になります。
3人の踊り子(1925年) 夢-マリ=テレーズ(1932年) ビーチにて(1937年)



戦争の時代 56歳から64歳
1937年(56歳)、スペイン内乱勃発の翌年に、ナチス空軍からゲルニカという街が無差別爆撃を受けます。ピカソはこれに抗議の意思を表すため、パリ万博用に依頼を受け制作中だったスペイン館の壁画制作を取りやめて、急遽「ゲルニカ」(33年?)制作しました。『ゲロニカ』をはじめ、ピカソの戦争に対する内なる衝撃と怒りを表現した象徴的な作品は、反戦や抵抗のシンボルとして評価されます。
100枚近くあると言われている「泣く女」をモチーフとした作品はこの年からシリーズ化して行きます。ピカソが写真家であり絵も描いた愛人ドラをモデルにした有名な作品の一つです。ドラ・マールはよく泣く女性であったと伝えられています。
1939年第二次世界大戦勃発直前に「山羊の頭骨を持つ帽子の女」を描いています。大きな目で真っ赤な山羊の頭蓋骨を手にするドラ・マールは怒りの化身と言われています。この時期の作品からは明るい色が消え、黒と灰色で描かれた戦争や死がテーマとなっています。
1939年(58歳)、ニューヨーク近代美術館で大規模な回顧展が開かれる。1940年、ナチス占領下のパリに戻る。
ゲルニカ(1937年) 泣く女(1937年)山羊の頭骨を持つ帽子の女(1939年)
1943年(62歳)、当時22歳の美しい画学生フランソワーズ・ジローと出会いその後同棲生活を始めます。



晩年の時代Ⅰ 65歳から71歳
フランソワーズとの間に、1947年(66歳)に息子クロードが、1949年(68歳)に娘パロマが生まれ、この頃は子供達の遊ぶ姿も盛んに描いています。
しかし、1953年(72歳)、10年連れ添ったフランソワーズは子供を連れて自らピカソのもとを去りました。捨てることはあっても捨てられることのなかったピカソにとって、彼女はピカソを捨てた唯一の女性と言われています。別れの原因はピカソの支配欲ということで、ピカソは大きなショックを受けたと言われています。
フランソワーズ・ジローは、現在も画家として創作を続け、2010年東京で日本初の個展を開催しています。
花の女フランソワーズ・ジロー(1946年) 緑の髪の女性(1949年) 写真:ピカソとフランソワーズ



晩年の時代Ⅱ 72歳から91歳
1953年(72歳)、フランソワーズが去った後、26歳のジャクリーヌ・ロックに出会います。その出会いは陶芸工房でした。
ジャクリーヌはピカソの晩年を共に過ごした二番目の妻です。ピカソがムージャンのノートル・ダム・ド・ヴィの別荘で亡くなるまで共に暮らしました。ピカソの熱心な求愛行動が実を結んだというのは有名な話です。衰えを知らない72歳です。
画風としては、ピカソの晩年はひとつの様式にとらわれない自由な絵画を数多く制作しました。
ジャクリーヌと付き合いだした頃から約10年間、敬愛するベラスケス(1599年 – 1660)、ドラクロワ(1798 – 1863)、マネ(1832年 – 1883年)などの名画を、自分のイメージで繰り返し描いた膨大な数の絵が残されています。中でも、ジャクリーヌをモデルに描いた1955年の「アルジェの女」は、2015年のニューヨークのクリスティーズの競売で約215億円で落札されています。
ベラケレスの「ラス・メニーナス」(1957制作)、ドラクロワ「アルジェの女たち」(1955制作)、マネ「草上の食卓」(1960制作)






1961年(80歳)、付き合い始めて8年後、ジャクリーヌと正式に結婚しました。ジャクリーヌは43歳。妻オルガは当の昔(1935年)に別居していましたが、遺産分与の問題で分かれることが出来ませんでした。1955年オルガが亡くなり、再婚できたということです。
手を組んで座るジャクリーヌ(1954)、画家とモデル(1963)、写真:踊るピカソとジャクリーヌ



1970年(89歳)、バルセロナで初の「ピカソ美術館」が開館しました。
ピカソの死とその後
1973年(91歳)、ピカソは、絵画、彫刻、デッサン、陶器、版画など約5,000点を残して、肺水腫により自宅でその生涯を閉じました。
死ぬ間際までアトリエに籠り、制作活動に没頭していたと言われています。およそ10年ごとに7人の若い女性との出会いと別れによって、その度に彼の絵は進化を遂げて行ったという、91年の生涯でした。
1904年(23歳) フェルナンド・オリビエ
1911年(31歳) エヴァ・グエル
1917年(36歳) オルガ・コクローヴァ(妻)
1927年(46歳) マリー・テレーズ・ウォルター
1935年(54歳) ドラ・マール
1943年(62歳) フランソワーズ・ジロー
1953年(72歳) ジャクリーヌ・ロック(妻)
ピカソは遺書を残さなかったため、美術品や金銭など総額690億円もの遺産相続の問題は混乱を極めました。解決したのはピカソの死から6年かかりました。結局、妻ジャクリーヌや子ども6人に分配されました。
妻ジャクリーヌは、ピカソの死後13年後の1986年、遺産相続の問題も決着して自分の役割を終えたかのように、後を追って自殺しています。
なお、現在の相続人はピカソの5人の子供と孫たちです。みんな、億万長者になっています。
- マヤ・ヴィドマイヤー(マリーの子供)
- クロード・ピカソ(フランソワーズの孫)
- パロマ・ピカソ(フランソワーズの孫)
- マリーナ(オルガの孫)
- ベルナール(オルガの孫)
1996年、クロード・ピカソ氏が、フランスの裁判所からピカソの財産の正式な管理者に指名され、パリに本社を置く財団「ピカソの資産管理団体」を設立しました。
相続人の共同所有権の管、作品の複製、展覧会の開催、あるいは万年筆などの小物から自動車など、全商品のライセンス契約、贋作の監視などマネージメントして、ピカソの遺産を管理しています。様々なグッズの製造・販売に関するライセンスと「追求権」(作者の死後70年間、作品の転売額の一部を受け取れるという権利に基づくロイヤルティー)で年間800万ドルもの収益を上げています。
「ピカソ美術館」3度目の正直で行きました。