フレデリック・バジール 絵画への強い想いを抱いたまま、28歳の若さで銃弾に倒れた
バジールは、誰に対しても寛容で、優しく、気前もよかった才能に溢れる画家です。画家の職業といえば、アトリエを借り、モデルを雇うなどかなりのお金がかかります。生活に困窮していたモネとルノアールの絵を購入してあげたり、自分が借りたアトリエを使わせるなど支え続けた人物です。
バジールは特にモネと親交が深く、モネの大作『草上の昼食』のモデルにもなり、彼の長男ジャンの名付け親にもなりました。
バジールは21歳の時、父親に宛ててこんな手紙を書いています。モネとの親交が厚ったことがわかります。
「モネとフォンテーヌブローの森のそばの小さな村シャイイで1週間過ごしました。モネは画家の卵の中で一番の友達です。彼はとても有益な助言をいくつもしてくれました。」
この頃、モネとノルマンディーのルーアン、オンフルール、サン=タドレスに滞在し、このとき、絵画への強い想いを父への手紙でつづっています。
オンフルールに着いてすぐに、風景画のモチーフを探しに行きました。……こんなにも青々と茂った牧草や、こんなにも美しい木々は他の所にはありません。。。あと3年か4年絵を続けて、自分で満足が行くようになりたいと思っています。間もなくパリに戻って大嫌いな医学に打ち込まなくてはいけません。ますます医学が嫌いになっていきます。
悲劇は晋仏戦争で起こります。戦争に志願したバジールは、フランス中部の街オルレアンで銃弾に倒れ亡くなります。享年28歳でした。なお、オルレアンはジャンヌ・ダルクがフランスを勝利に導いた場所として、ジャンヌ・ダルク一色の観光の街です。
あまりにも若く亡くなったため、画家としてはわずか7年余りに過ぎず、残した油彩画は70点ほどでした。もし長生きしていたらモネやルノワールのように、印象派の巨匠になっていたに違いないと、多くの評論家が彼の非凡な才能を評価しています。
代表作『家族の集い』は戸外における人物群像を優れた構成力と光のコントラストの下で描いた作品です。印象派誕生の貴重な記録とされています。
また、バジールは他の新鋭画家と同様にサロンの審査に不満を抱き続けた一人でした。印象派グループ展が始まったのは彼の死から4年後のことです。独立したグループ展の構想の中にいたバジールはさぞ無念だったことでしょう。
28歳の若さで散ったバジールの生涯
フレデリック・バジール。1841年、フランス南部のモンペリエでワイン製造を営む名家に生まれます。父は農学者、議員としてモンペリアの実力者でした。
バジール18歳、父の勧めでパリの医学部に進学
また、父から「医学をしっかり勉強すること」を条件に絵の勉強も許され、シャルル・グレールの画塾にも通いました。
シャルル・グレール(1806年5月2日 – 1874年5月5日)は30代でサロンに認められ、早くして成功の道を歩み始めた人物です。でも40歳代で、あっさり画業の第一線から身を引き、若い画家への教育に専念します。教育方針は自由、しかも授業料は無料。受け取ったのはアトリエの家賃、モデル代など必要経費のみでした。グレールの教育思想がバジールに与えた影響はそうとう大きかったと思います。
この画塾で、モネ、ルノワール、シスレー、セザンヌらと出会います。セザンヌが1839年1月19日生まれ、モネが1840年11月14日生まれ、ルノワールが1841年2月25日生まれ、シスレーが1841年10月30日生まれです。同年代の彼らの出会いがその後に大きな影響を与えて行きます。
バジール22歳、絵に専念する
父親は彼の絵にかける情熱に負け、絵を専門に勉強することを許しています。彼はこの年、医学の試験に落第しています。
バジール23歳、金銭的に常に困窮していたモネ、ルノワールのために、フュルスタンベール通りに共同でアトリエを借りました。スペースが手狭になったなどの理由で度々アトリエを変えたのですが、このアトリエは3年使っていました。
ここで、モネはバジールとクールベをモデルにした「草上の昼食」を仕上げています。このタイトルは1863年の「落選展」に出品されたマネの問題作と同じ名前です。しかしこの絵は完成せず、サロンに出展していません。太陽のもとで描けなかったからだと言われています。
サン・ジェルマン・デ・プレ教会の裏手にあって、前年までドラクロワがアトリエ兼住居でした。現在は「国立ウジェーヌ・ドラクロワ美術館」となっています。
バジール25歳のとき、サロンで落選したモネの「庭の女たち」を25,000フラン(今の価格にして250万円)という破格の値段で買取ります。妻子を抱えていたモネはバジールから渡されるお金(月々5万円、50回払い)でしばらく生活を凌ぎました。モネがいかに生活は困窮していたかは、この3年後の1869年、セーヌ川に身を投じて自殺を図ったことでも計り知ることができます。
バジールは「庭の女たち」を買う時、「この絵の価値がわかるから買うんだ」とモネに伝えたそうです。後のこの絵の高い評価を見ると、彼はやはり優れた美術家だったことかがわかります。
「庭の女たち」ですが、当時流行のドレスを着飾った女性モデルはモネの妻カミーユだと言われ、ポーズはファッション雑誌を参考にしたそうです。太陽の光と木漏れ日、これまで大きなフォーマットで書かれてきたのは歴史画だけでした。モネは大きな風俗画で挑戦しました。また驚くべき工夫をしていいます。まず、目線の高さが変わってしまうため脚立を使わず、庭に穴を掘り絵画をそこに入れて、クレーンを使い絵を上下させました。また描く日は天気のいいだけ。太陽の光の角度が一定になるよう、絵に取り掛かる時間はいつも同じでした。
モネ『庭の女たち』1866年
バジール26歳、南仏モンペリエ近郊の実家で、テラスに集まった家族をモデルに『家族の集い』を作成
後に印象派の世界を予告する作品と評され、彼の代表作となった作品です。いとこの結婚を祝して、親戚一同がバジールの家に集またったのがこの絵の背景です。左に立っている背の高い男性がバジール自身、座っている青いドレスの女性が母親、隣で足を組んでいる男性が父親です。バジールの作品は、この頃から友人や家族をモデルにした風俗画が増えて、アカデミックな画風へ変化しています。
バジール『家族の集い』1867年 (オルセー美術館)
バジール27歳の時、『家族の集い』と『花瓶』が入選。
バジール28歳の時、『村の眺め』が入選。
1870年11月18日、農家の母子を助けるために、2発の銃弾に倒れる。
父親は息子の戦死の知らせを聞き、すぐさま激戦の地オルレアンに向かい、バジールの遺体を自分の手で故郷モンペリエに連れ帰りました。
父はバジールの死後5年後の第2回印象派展(1876年)に足を運んでいます。息子と同世代の画家の活躍した姿を、その目で見るためだったのかも知れません。そこでルノワールが描いた息子の肖像画に出会います。『バジールの肖像画』です。ルノワールが彼との友情の証として出品していました。
『バジールの肖像画』の所有者はマネでした。バジールが購入していたモネの『庭の中の女たち』とを交換することで、息子の肖像画を手に入れることができました。現在『バジールの肖像画』と『庭の中の女たち』はいずれもオルセー美術館にあります。この2つの傑作はこうした物語もあります。
バジールが亡くなったとき、モネはというと戦争を避けてロンドンに疎開していました。パリに帰ったのは翌年の1871年です。遠い地でバジールの悲報を聞いたモネの心境は察するにあまりないと思います。一方、ルノワールは騎兵隊に従軍し、彼も翌年にパリに戻っています。スパイと間違われ一時逮捕される事件にあったようです。
バジールは生まれ故郷のモンペリエで眠っている。
- 『フュルスタンベール通りのアトリエ』1865年 (ファーブル美術館(モンペリエ))
- 『病床のモネ』1865年 (オルセー美術館)
- 『自画像』1866年 (オルセー美術館)
- 『バジールの肖像画』1867年、ルノワール (オルセー美術館)