東北の旅 2日目は平泉へ

仙台駅8:00発の新幹線で一ノ関駅で乗換え、9時過ぎに平泉に到着

平泉について:地域一帯には、平安時代末期、奥州藤原氏が栄えた時代の寺院や遺跡群が多く残り、そのうち5件が「平泉―仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群―」の名で、2011年にユネスコの世界遺産リストに登録されました。日本では12番目、東北地方では初の世界文化遺産です。

約100年の間、平安京に次ぐ第2の都市、奥州藤原氏

1087年から1189年まで約100年の間、この地域一帯に勢力を張った藤原清衡に始まる奥州藤原氏

初代 清衡 →2代 基衡 →3代 秀衡 →4代 泰衡

藤原家は政治的に中立の立場を維持し、戦乱の京の政争とは無縁とばかりに、奥州17万騎の強大な武力を保持し、独自の政権と文化を確立し発展していきました。

藤原家は清衡から4代の泰衡まで一貫した姿勢を貫きました。それは、朝廷から来る国司(行政官として中央から派遣された官吏)に、全面的に協力し、朝廷や藤原摂関家(摂政・関白に任ぜられる家柄)には、砂金や馬などの献上品や貢物を欠かさなかったということです。

世情を嗅ぎ分ける清衡の眼力とはっきりした戦略、100年もの間引き継がれたことがなおさらすごい。現代なら希に見る超優良老舗企業です。

落日 源頼朝と義経の確執、時代は平安から源氏へ

そんな藤原家にも終わりがやってきます。

3代秀衡は文治三年(1185年)、源頼朝と対立した義経をかくまったことが発端です。義経引渡しの要求にも再三拒みました。その秀衡は2年後に亡くなります。

息子の泰衡は拒みきれず、1189年4月義経を自殺に追い込み、義経の首は鎌倉へ送りました。しかし頼朝は許しません。3ヶ月後、泰衡は殺害され、奥州藤原氏は100年の歴史に幕を閉じます。しかし、殺害の本当の理由は長年独自政権を確立していた藤原家を恐れていたから、とも言われています。

電動自転車を借りてスポット巡り出発

ママチャリで十分と思っていたところ、お店のおじさんが「電動にしときな。悪いことこと言わないから」と。平泉は思ったより高低差があったので間違いなく大正解でした。

①平等院鳳凰堂を模した 無量光院跡 

駅から650mほどで無量光院跡に到着。3代秀衡が宇治の平等院鳳凰堂を模して建立したものです。

現在は遺跡のほとんどが水田化、池跡と中島、礎石のみです。でも遺跡としての価値は高いようです。

②頼朝最期の居館 高舘義経堂(たかだちぎけいどう)

かなり急な坂を上ると小さな案内所があります。無量光院跡からわずか500mの場所です。

階段を登っていくと前方が大きく開け、北上川を見下ろす「高館」と呼ばれる高台があります。その左手に高舘義経堂があり、右手には平成元年(1989年)の「奥の細道」300年を記念した建立された「平泉芭蕉祭」の記念句碑があります。碑には「夏草句碑 ”夏草や兵(つわもの)どもが夢の跡”」が刻まれていました。

③天台宗東北大本山として慈覚大師が創建した 中尊寺

さらに600mほどで中尊寺の入口に着きました。

中尊寺は寺塔40余り、禅坊300余りの大伽藍を造営した平泉文化の象徴となったお寺です。

大唐文化や仏教思想を日本に伝えるため、慈覚大師が天台山を旅して書き残した「入唐求法巡礼行記」は、三蔵法師の「大唐西域記」、マルコポーロの「東方見聞録」とともに世界の3大旅行記といわれています。

慈覚大師円仁(じかくだいしえんにん)は延暦13年(794)岩舟町下津原で生まれ、後に伝教大師最澄の弟子となり貞観6年(864)71歳で、天台宗の総本山である比叡山の延暦寺にて入寂。42歳のとき、朝廷からの命令で唐(中国)に留学。唐を旅した承和5年(838)から約10年間の旅行記が「入唐求法巡礼行記(にっとうぐほうじゅんれいこうき)」と呼ばれる。

④中尊寺の表参道 月見坂

月見坂は金色堂まで約860m続き、樹齢300~400年の杉が立ち並ぶ表参道です。左右にいくつもスポットがあります。

弁慶堂:義経と弁慶の木造があり、弁慶自身が彫った弁慶像も奉納
本堂:天台宗総本山比叡山延暦寺から分火された「不滅の法灯」が灯り、阿弥陀如来が安置
讃衡蔵(さんこうぞう):宝物館。国宝「三体の丈六仏」をはじめ3000点以上が収蔵
金色堂:全面に金ぱくを押した阿弥陀堂の中に藤原三代が祀られている。

⑤今でも使われている 白山神社能舞台 

さらに一番奥へと進むと白山神社能舞台が。伊達藩主によって再建・寄進され、橋掛り、楽屋などを完備した構成の近世能舞台遺構としては東日本で唯一の能舞台です。

驚くべきは、この舞台が今でも使われているそうです。

「1849年の火災で焼失。現在ある能舞台は1853年に伊達藩主伊達慶邦朝臣から再建奉納された。天正19年、関白豊臣秀次と藩主政宗公が当社参拝の節観覧に供し依頼続行今日に至っている。明治9年秋には、明治天皇が御東巡の折りに当社に御臨幸あらせられ、古式及び能舞を天覧あらせられた。」

案内板より

近くにレストラン(かんざん亭)があったので、自然薯そばと生ビールをいただきました。

中尊寺の入り口に戻り、毛越寺に向け出発です。途中2kmほどの場所にあった平泉文化遺産センターは藤原氏の歴史や平泉の文化や写真が展示されています。無料なのに人はまばらです。ゆっくり見学できました。

⑥浄土庭園で有名な 毛越寺

平泉文化遺産センターから500mほどで毛越寺に到着。

毛越寺も慈覚大師によって開山され、その規模は堂塔40僧坊500を数え、後に『吾妻鏡』が「寺院の立派であること国内に並ぶもの無し」と記すほど壮大だったということです。藤原氏滅亡後、度重なる災禍によって建物はすべて焼失しましたが、池を中心とする浄土庭園と伽藍遺構がほぼ完全な状態で保存されています。

今までに観たこともない景色が目の前一面に広がっていました。東西約180m、南北約90mの大きな池泉を中心に作庭された浄土庭園です。たくさんの大きな松や杉もあります。ゆっくり時間をかけて一周しました。

保護政策を取り、現在まで完存して今に引き継いだ仙台藩のすごさも伝わります。

⑦こちらも浄土庭園 観自在王院跡

毛越寺の隣には観自在王院は基衡の妻が造営した観自在王院跡があります。大小二棟の阿弥陀堂跡の前面に、舞鶴池を中心にした浄土庭園が広がっています。遺跡発掘調査に基づいて伽藍遺構と庭園の修復・整備が行われ、今日の姿になったとのこと。

世界遺産委員会は、毛越寺と無量光院跡はともに「現世における仏国土(浄土)の象徴的な表現として造営された」資産であると高く評価しています。

ここでスポット巡りは終了です。

平泉駅に戻り、自転車を返したら、レンタル店のおじさんが「まだまだ時間はありますよ!」と言っていただいたのですが、駅近でまたビールで乾杯し、仙台へ戻りました。

浄土庭園が一番院長に残りました。いやー、たいへん印象深く、勉強になった一日でした。

10月13日(水)松島へ

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