2022年10月 東北の旅 仙台、平泉を堪能して最終日は松島へ
天気にも恵まれ、思う存分、東北を満喫できました。
松島へ行ったので日本三大百景制覇です。2017年天橋立、2019年宮島、2022年松島、足かけ6年。
でも、宮島では大鳥居が工事中で姿は見れず。。。
今年の2022年12月に全ての工事が完了したようです。いつか見に行きます。
10月11日(火)仙台へ
横浜の家を9時過ぎに出て、新幹線を乗り継いで、12時過ぎ仙台駅に到着
「ダイワロイネットホテル仙台西口」に2泊
2022年5月20日開業のホテルで、清潔感があり、部屋のシステムもとても合理的に作られていて、1階にはコンビニがあり、大変リーズナブルなホテルでした。他に仙台に2店舗あるようです。
さて、観光スポット用の循環バス「るーぷる仙台」を使って観光に出発。
仙台藩祖伊達政宗の霊廟へ
藩祖政宗の瑞鳳殿(ずいほうでん) 、二代忠宗の感仙殿(かんせんでん) 、三代綱宗善応殿(ぜんのうでん)
正宗が母・義姫の菩提寺の完成を祝った帰り道、ホトトギスに誘われ入山し、自身の墓所にすると決めたと言われています。
瑞鳳殿に寄り添うように感仙殿と善応殿が建ち、どの本殿も鮮やかな色遣いと豪華な装飾が施され、それは見事なものでした。
瑞鳳殿と感仙殿の本殿両脇に宝篋印塔(ほうきょういんとう、藩主と共に殉死した家臣や陪臣の供養塔や墓碑塔)がいくつも並んでいました。伊達氏がいかに家臣に慕われていたかを物語っています。綱宗の時代は殉死禁止令が下っていたので、善応殿には宝篋印塔がありません。
終戦の年、アメリカ軍による爆撃ですべての霊廟は焼失しています。
次は伊達氏代々の居城 仙台城跡
仙台城は二代忠宗の代に完成し、廃藩置県・廃城令まで約270年に渡る伊達氏の居城でした。
東北大学のキャンパスを両脇に見ながら、バスは急坂をどんどん登って行きます。広瀬川を渡るとすぐ左手に川内キャンパスがあり、青葉山キャンパスの真ん中を通過して、ほどなく仙台城跡に到着しました。
仙台城は、天然の要塞として、山の頂上に建っています。伊達政宗騎馬像がある本丸に行くと、そこは広大な敷地が広がり、仙台市内と太平洋が一望できました。こんな見晴らしのいいお城が存在するとは知りませんでした。。。(標高約130m、東西245m、南北267m)
この仙台城も、アメリカ軍による空襲により大半の建築物は焼失しています。
奥州で圧倒的な経済力を築いた伊達政宗
仙台藩は、加賀藩100万石、薩摩藩の73万石に次ぎ、全国3番目の62万石を誇りました。
家督を継いでわずか4年で、福島、山形、宮城の3県にわたる広大な勢力圏を築く
正宗は1567年(永禄10年)、出羽国米沢城(山形県米沢市)で生まれ、幼少時に天然病にかかり、右目を失います。
11歳で元服、13歳で結婚、15歳で初陣を飾り(1年後に本能寺の変)、18歳で第17代として家督を相続、22歳、福島、山形、宮城の3県にわたる広大な勢力圏を築きました。戦にめっぽう強かったようです。
23歳で死装束での挨拶
有名なエピソード「死装束での挨拶」
1590年、豊臣秀吉による北条氏討伐を掲げた小田原合戦が起こり、政宗に参戦の書状が届きます。しかし北条氏とは同盟関係にありました。出陣が遅れ、小田原に到着したときはすでに北条氏の敗北は決まっていました。
当然秀吉の怒りを買い、これに政宗のとった行動が「死装束を纏った謁見」でした。
このパフォーマンスで、秀吉に「もう少し遅くなっておれば、その命はなかったぞ」と言わしめ、首は辛くも繋がったといわれています。
さらにまた「死装束での挨拶」
翌年、今度は一揆扇動の黒幕として嫌疑がかかり、秀吉から蟄居(ちっきょ)の命が下り、領土を一部没収されます。
全国を統一した秀吉は奥州の再編成に着手します。政宗は南北を秀吉の臣下に挟まれ、この時に小田原合戦で没収された場所で一揆が勃発しました。正宗はこれを鎮め、褒美として領地を返してもらおうと一揆を焚きつけたと。。。
秀吉は正宗を呼び出します。政宗は前回の死装束に加え、金箔を貼った磔柱(はりつけばしら)を担いで参上し、のらりくらりと言い逃れを言い続けたといわれます。結局、秀吉は政宗を領地の制裁のみで済ませています。その後の正宗の幕府への忠誠と貢献を見ると、秀吉にしかわからない何かを正宗に感じ取ったのでしょうか。
政宗は希にみる優秀な為政者だった
1603年、正宗36歳のときに仙台城に移住します。家康が征夷大将軍に任命され、江戸幕府を開いた年です。
河川の工事や潮風から田畑を守るための植林、湿地を改良による新田開発、石巻港の整備と次々と開墾に乗り出しました。さらに鉱山の開発、養蚕、砂鉄、和紙、たばこの生産など、多岐に渡る産業を発展させ、根付かせて行きました。
政治的には、3代にわたって徳川幕府と親密な関係を作り、一定の距離を置きながら、徐々に関係を深めて行き、やがて幕府の重鎮となり、仙台藩62万石を治める為政者となって行きました。
正宗辞世の句「曇りなき心の月を先立てて浮世の闇を照らしてぞ行く」
”照らしてぞ行く”は”晴てこそ行け”とも伝わっています。
政宗は、治水事業、新田開発など仙台藩の発展に力を注ぎ、大崎八幡宮、瑞巌寺の再興では上方の絵師や大工などを招き、桃山文化の手法を取り入れるなど文化の再興にも注力します。また、江戸は人口増加によって深刻な米不足にありましたが、米消費量の3分の1は仙台藩が賄っていた、とも伝えられています。
隠居することなく、最後までまさに東北随一の為政者でした。
参勤交代で3代将軍・徳川家光と謁見し、その一月余り後に政宗は江戸城下の藩邸屋敷で最期を迎えました。家光は江戸で7日、京で3日、庶民にも喪に服すよう命じたとのことです。享年70歳。
「伊達者」の起源は正宗
秀吉の朝鮮出兵で政宗にも声がかかり、肥前の名護屋城(佐賀県唐津市)へ向った際、大名が京都で隊列を組んで出陣したときのこと、伊達軍は二番隊の家康のすぐ後でした。
政宗は紺地に金の日の丸を描いた幟、馬には豹や虎の皮、黒と金を基調とした装束と孔雀の尾をつかった鎧を着用して颯爽と登場したのです。派手で奇抜な装いは京の人々の目を惹きつけました。これが「伊達者」という言葉の起源になったそうです。