パリの歴史 現在のパリはセーヌ川を挟み右岸と左岸で形成された大変美しい町です。
パリは、多くの優秀な土木建築の技術によって、長い歴史の中で徐々に形成されて来ました。そして19世紀初め、今から約200年前、ナポレオン三世とオスマン男爵による強いリーダーシップによって、現在の稀にみる美しい街となりました。
ザックリですが、順を追ってパリの歴史を見ていきたいと思います。
紀元前250年ごろ、ケルト人がセーヌ川の中州(シテ島)に砦を築きました。ここからパリの歴史が始まります。
シテ島の周りは、湿地帯に覆われていたので、まさに天然の要塞でした。
また、シテ島といえば、12~13世紀に建てられたゴシックの傑作「ノートルダム大聖堂」があます。
何かに導かれたように(実は妻の方が)、 何度となく「ノートルダム大聖堂」 に入りました。
ユゴーの「ノートルダム・ド・パリ」でも有名です。この小説では、「ノートルダム大聖堂」の重要性を訴えています。
「とにかく、これから作られる新しい記念建造物を待ちうける一方、昔からある記念建造物をもまた大切に保存してゆこうではないか。できれば、民族生粋の建築を愛する精神を、フランス国民の胸に吹きこもうではないか。はっきり申し上げるが、これこそ、この本を書いた主な目的のひとつであり、私の一生の主な目的のひとつでもあるのだ。」 (ユーゴー が『ノートルダム・ド・パリ』 を書いた目的の一部下り)
紀元前58年、ローマ軍がシテ島に築いた要塞を制圧し、中洲の両岸に橋を作って、集落を広げて行きます。
セーヌ川左岸の「カルチェラタン」のに公共広場・劇場や公共浴場など、ローマ式の街を作っていきました。パリ第6大学の近くに円形闘技場の遺跡があります。今ではパリで最もお洒落なエリアとなっています。
486年、フランスの祖先であるフランク人に侵略され、その後600年の間、侵略を受け続けます。
商業が栄え、重要な交易地になるにつれて、バイキングやイギリスなど、多くの外敵から侵略を受けることになります。これを防ぐために、12世紀の末、フィリップ2世がパリの周辺を全て城壁で囲みました。67か所の看守塔を備える壮大なものだったようです。
12世紀、1163年にノートルダム大聖堂も作られ、シテ島は政治と宗教生活の中心となって行きます。
左岸は教会が運営する様々な学校が置かれた学術の中心、右岸は商業と経済の中心でした。
13世紀、土木工学を知る修道士が地下6メートルに水路を張り巡らせました。この水路は今もそのまま残っています。 当時、水確保の唯一の綱だったセーヌ川が夏は度々干上がってしまい、パリの歴史は渇水の問題との戦いでもありました。
14世紀以降のパリは、疫病や政争、さらに大衆の反乱が断続して起こります。
18世紀後半、ルイ16世の下で、パリは芸術、科学、哲学の中心としての威信を得るようになりましたが、裏では、フランスの国家財政はもはや破綻しており、七年戦争と、アメリカ独立戦争への干渉によって、資金が枯渇していました。
18世紀終わりの1789年7月14日、バスティーユ牢獄の襲撃が起こり、フランス革命へ。19世紀初めにはナポレオンが皇帝として即位
19世紀初めの1804年5月18日には、ナポレオンがノートルダム大聖堂で皇帝として即位します。
「新しいローマ」の建設が始まりです。「凱旋門」(エトワール凱旋門)はナポレオンが行政改革の着手を記念して1806年には建設したものです。
ヨーロッパ中世の建物は旧市街を見渡せるように上まで登れるようになっています。でもほぼ階段です。
パリにもたくさんあります。「凱旋門」、「サクレ・クール寺院の塔」、「 ノートルダム大聖堂の塔」と主要なところはたいてい克服しています。
そこで、階段の数を調べてみました。すると、なんと「凱旋門」は最下位です。
1位:エッフェル塔の第1展望台が360段、第2展望台が700段
2位:ノートルダム大聖堂の塔が387段
3位:サクレ・クール寺院の塔が300段
4位:凱旋門が284段
2018年に登ったときは、途中で生き絶え絶えになって、妻に「死ぬんじゃないか」と心配されました。ガムを噛むなど、いい加減な気持ちで登ってたからだと思っています。
「息を大きく吸って呼吸を整える」ことって、本当に重要なようです。皆さんも山など登るときも心がけてください。
後何年挑戦できるか心配です。
話をパリの歴史に戻します。
19世紀半ば、1853年、ナポレオン3世の命を受けセーヌ県知事に就任したオスマン男爵 が「パリ大改造」を推し進めます。
「パリ大改造」によって、現在の近代都市に生まれ変わります。
オスマン男爵は凱旋門から放射線に伸びる大通りを増やし、渋滞を緩和し、大通りの両脇には20メートルに統一されたアパルトマンが建てられました。
大通りにしたの理由は、ただ渋滞を緩和しただけではなく、治安への対策として「軍隊の出動を容易にする」といったもう一つ理由があったようです。
19世紀末の1889年、エッフェル塔が完成、ほぼ今のパリの形が出来上がりました。
1940年、ドイツ軍がパリに侵攻しました。1944年、ドイツ軍の撤退のあたり、ヒトラーは街の破壊を命じ、パリは最大の危機に直面します。
しかし、ヒトラーの命令を受けた指揮官がこの命令に背いたのです。そのお陰で、オスマンが設計したままの状態で残されたことで、彼の偉業を今に伝えています。
絵画の世界では「パリの大改造」を待っていたかのように、1870年代から後に”印象派”と呼ばれる画家が現れます。
最新科学や都市化社会、新しい文化への強い関心から、先鋭的な作品を数えきれないほど発表して行きます。オスマンが進めた「パリ大改造」がこの”印象派”を生んだと言っても過言ではないと、私は思っています。
いつか、この点もレポートしたいと思います。
次はフランス、ドイツ、イングランドの関係です。どうぞ↓