印象派を象徴する「光の画家」クロード・モネ―「睡蓮の連作」だけでも200点の作品を残した
クロード・モネは日本の多くの方がご存知の印象派の画家ではないでしょうか。
オランジェリ―美術館にある2つの部屋一面に飾られたモネの「睡蓮」は圧巻でした。
パリの学校で学びました。またパリで印象派の画家と一緒に絵を描いていた時期もありましたが、「郊外で自然を描き、ときたまパリを訪れる」こんなスタイルでした。
不思議なことに、31歳から住んでたアルジャントゥイユ、「ルーアン大聖堂」の連作を描いたルーアン、そして最後の半生を過ごしたジヴェルニーは、 生まれたパリと幼少期に過ごしたル・アーヴルの間にすべて点在します。
ル・アーヴル→ (100キロ)ルーアン→ (70キロ)ジヴェルニー→ (70キロ)アルジャントゥイユ→ (20キロ)パリ
パリに生まれ、幼少時はフランス北西部の大西洋に臨むノルマンディーの港町、ル・アーヴルに住み、19歳で初めてパリの画塾スイスアカデミーに通い、22歳でシャルル・グレールに師事します。
その後、23歳から約4年は、パリのバティニョール(モンマルトルの隣)に住んでいました。この一角にあったカフェ・ゲルボワで、頻繁に、マネ、ルノワールらと議論を交わし、印象派画家と親交を深めます。
(その後、モネ34歳の頃、彼らが集う場所はこのカフェ・ゲルボワからカフェ・ド・ラ・ヌーヴェル・アテーヌへ移ります)
モネの実質的な画壇デビューは26歳の時でした。「緑衣の女性」がサロンで高く評価され、大きな評判を呼びます。
27歳で長男が生まれ、ル・アーヴルに戻り、30歳の時、晋仏戦争が勃発したためロンドンに疎開して、「緑衣の女性」となったカミーユと最初の結婚をします。その避難先のロンドンで、印象派最大の支援者となるポール・デュラン=リュエルと出会いました。
31歳でフランスに戻り、パリから約20キロ離れたアルジャントゥイユに移住しました。
32歳の時、ル・アーヴルの港で、後に彼の人生を変えることになる「印象・日の出」を描きました。
33歳の時、セザンヌ、モリゾ、ドガらと「第1回印象派展」を開催し、モネは「印象・日の出」、「ひなげし」、「キャピュシーヌ大通り」を出品しました。
なお、1879年の第4回まで印象派展へ出品していましたが、1880年の第5回印象派展で途切れます。
原因は、彼が1880年のサロンに出品し、印象派展への出品資格を取り消されれたこと、さらにモネはこの年初めて個展を開催するなど、グループの展覧会出展の必要性が問題となって来ていました。この第5回と次の第6回は、モネをはじめ、セザンヌ、ルノワールも参加していません。
印象派展はその目的を果たしたのか、派閥争いもあり、1886年の第8回で幕を閉じます。
モネは43歳でジヴェルニーに家を借り、50歳代に「睡蓮」や「ルーアン大聖堂」など、連作を始めます。
1926年12月5日、半生を過ごしたジヴェルニーで、享年86歳の生涯を終えました。
左から、 「緑衣の女性」 → 「印象・日の出」 →「ルーアン大聖堂の連作」
季節や時刻が違うだけで、同じ対象物でも同じ見え方はしないのでしょう。1年前の同じ日の同時刻であっても違うます。モネは「ルーアン大聖堂の連作」 は約30点、あの 「睡蓮の連作」 に至っては200点もの作品を残しています。