印象派の先駆者エドゥアール・マネ―「印象派の父」と呼ばれることを拒み続け、アカデミーに認められることこそが夢だった。しかし叶わなかった
エドゥアール・マネは「印象派の父」と呼ばれ、近代絵画への道を開いた第一人者と言われています。今までの写実主義から印象派へ導いた人物です。
マネは1832年パリの裕福な両親(ブルジョアの母と高級官僚の父)の間でに生まれます。
彼の画家としての歴史は、29歳の時サロンで入選した「スペインの歌手」(下の左の写真)から始まります。サロンで評価されることは彼の生涯にわたる念願でもありました。この時自分の両親を描いた「オーギュスト・マネ夫妻の肖像」も出展しています。
この2枚の絵に描かれた大雑把な画風は若い芸術家たちの関心を呼びます。
しかし、2年後の31歳の時に出展した「草上の昼食」(下の右上の写真)がサロンで厳しい評価にさらされます。裸婦の後ろに、果物などの食べ物や当時流行のドレスを描くことで、現実の女性であることが表現しています。神話ではなくただの裸婦という、道徳に反した構成や不自然な遠近法は、伝統に縛られたアカデミーには理解されませんでした。
さらに2年後の33歳の時、後に彼の代表作となる「オリンピア」(下の右中の写真)が再びサロンの非難を浴びます。「草上の朝食」以上に糾弾されました。蘭、上向きの髪、黒猫、花束はすべてセックスの象徴とみなされていました。女性はニンフではなく娼婦を描きました。マネはギュスターヴ・クールベの後継者(反逆児)と言われることになります。また、この作品の平面的な表現は浮世絵から影響を受けています。
マネは40歳代で、クロード・モネにも会い、アバンギャルド(前衛芸術家)のリーダーとなって行きました。しかしマネ自身はアバンギャルドと呼ばれることに抵抗を示し、1847年マネ42歳の時から開催された印象派展には一度も出展せず、最後までサロンに固執しました。
アカデミーに認められることが彼の望みでした。
ようやく49歳の時、栄誉あるレジオン・ドヌール勲章(ナポレオン・ボナパルトによって制定されたフランスの最高の勲章)を受章します。
そしてサロンへの最後の出展作がマネ50歳、亡くなる1年前に描いた「フォリー・ベルジュール劇場のバー」(上の右下の写真)です。この絵はモダニズム絵画の創始者として、マネの集大成となりました。
これからと言うとき、マネは壊疽が原因で片足の一部切断手術をした10日後、51歳の若さで亡くなりました。