ナポレオンが眠っているアンヴァリッド、フランス人の誇りも感じるが、複雑です。。。

泊まっていたサン・ジェルマンのホテルから10分ほどの距離にあったので、歩いて行きました。

「ロダン美術館」は隣にあります。

アンヴァリッドは「エトワール凱旋門」の屋上から見ても、「モンマルトルの丘」から見ても、エッフェル塔の左隣に威風堂々、燦然と輝いて見えます。

アンヴァリッドは金色に輝いているので一番目立つ建物です。ド-ム型の屋根が輝いてます。

初めて見ると、どなたでも「ありゃなんだ?」と思うでしょう。

アンヴァリッドとは1671年、ルイ14世が傷病兵を看護する施設として計画し建てられた旧・軍病院(廃兵院)です。廃兵院とは、後遺症や後遺障害を抱えた軍人に恩給を支給したり、待遇保護するために設けられた施設です。

また建築として有名な教会が付属していて、隣接するナポレオンの棺の場所と併せて”ドーム教会“と呼ばれます。

このドーム協会“聖ルイ”と称えられるルイ9世の遺体安置のために1706年に建設されました。 ルイ9世と言えば、1248年にサント・シャペルを献堂した人物です。

その後、19世紀に入ると、ルイ・フィリップ国王が教会地下に墓所を設け、その中央に「ナポレオン・ボナパルトの柩」が置かれました。さらに、それを囲むように、ナポレオンの親族やフランスの著名な将軍の廟が置かれています。

アンヴァリッド 入り口を入ると、いきなりすぐ真下に「ナポレオンの棺」が置かれています。

妻が大きな円の下をのぞき込んでします。

下に降りると、その棺の大きさと重厚さに驚くと思います。

ナポレオンは1821年に幽閉されたセントヘレナ島で亡くなりました。「セーヌ川の辺で眠りたい」と言い残しています。だからここアンヴァリッドに安置されたのですね。

その後、国王ルイ・フィリップの意向によって1840年パリへ送られ、教会を大幅に改修し、1861年に棺が安置されました。

ナポレオン・ボナパルト 日本人が抱いているナポレオンのイメージとフランス人の想いが違う。

日本人が抱いている一般的なナポレオン像は「フランスの英雄、偉人、戦さの天才」だと思います。でも、私がここで感じたのは「フランス人も観光客も何て少ないんだろう。彼はフランスの英雄なのに。。。」といったものです。

フランス革命によって、指導者が次々に追放・処刑され、未曽有の血が流れました。ヨーロッパ諸国とも敵対することになります。こうした混とんとしていた時代にナポレオンは突如として現れました。国旗にある「自由・平等・博愛」を旗印に、国内でエスカレートしていたエネルギーを、戦争という形でフランス国民を鼓舞しまとめ、ヨーロッパを席捲して行きました。

しかし、ロシア敗北から一気に敗退の道を辿り、全てを失います。そしてフランスにとって大きな痛手を負うことになりました。

多くの国民を死なせたことで働く世代が激減し、最も豊かだったフランスを衰退させることになりました。フランス人は決して彼を英雄として見ていないのかもしれません。皇帝になり、独裁色を強めて行ったことも、フランス革命を誇りとしているフランス人からは受け入れにくいのではないかと思います。

アンヴァリッドでは、革命を経て新しい国家として誕生したフランスの複雑な歴史を感じました。

ナポレオン2世(ナポレオンの息子)、兄、弟をはじめとした親族と、フランスを勝利に導いた多くの将軍が眠っています。

フランス国歌『ラ・マルセイエーズ』の残酷な歌詞にもフランスの複雑な歴史を感じます。

フランス国歌『ラ・マルセイエーズ』を作った作曲家の墓もあります。

『ラ・マルセイエーズ』はすぐ口ずさめそうな、いいリズムの曲です。しかし歌われている歌詞は残酷極まりないものです。

1番は次のような歌詞です。7番までこのような歌詞が延々と続きます。

行こう 祖国の子らよ 栄光の日が来た!

我らに向かって 暴君の 血まみれの旗が 掲げられた 血まみれの旗が 掲げられた

聞こえるか 戦場の 残忍な敵兵の咆哮を?

奴らは汝らの元に来て 汝らの子と妻の 喉を搔き切る!

武器を取れ 市民らよ 隊列を組め

進もう 進もう!

汚れた血が 我らの畑の畝を満たすまで!

1792年4月25日、フランス革命を粉砕しようと、オーストリアの軍勢がフランス国境に迫りつつありました。 「これを迎え撃つ部隊を鼓舞するために、ひとりの若い工兵大尉が一夜にして作詞作曲した」これが定説となっています。タイトルは『ライン軍のための軍歌』 でした。

その後、全国にパンフレットで流布され、テュイルリー宮襲撃事件の約2週間前にマルセイユ連盟兵がパリに入城したときに口ずさんでいたことをきっかけとしてパリ市民の間で流行します。そして1795年7月14日に国民公会で『ラ・マルセイエーズ』と言う名前で国歌として採用されたということです。

記憶に新しいところでは、2015年11月13日パリ同時多発テロの夜、『ラ・マルセイエーズ』は街中で追悼や団結のために合唱されていました。また事件当日に開催された国民議会臨時会合では犠牲者への黙祷の後、誰ともなしに『ラ・マルセイエーズ』が歌われだし大合唱となったとのことです。国民議会で議員によって『ラ・マルセイエーズ』が歌われるのは第一次世界大戦終結後の以来と言われています。

芸術の都パリ、でもこの一言では語れないですね。

次に隣接している「フランス軍事博物館」に行きました。

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