パリの歴史 フランス国民祭の7月14日はバスティーユ牢獄襲撃の日、各地で花火が鳴りやまない。「近代資本主義社会」を完成させた革命だった

長いブルボン朝の時代が終わりを告げて、フランスが近代国家に向かったのはわずか200年前のことです。

フランス国民祭(国祭)は「フランス共和国の成立を祝う日」自衛隊も参加する

「フランス革命」が勃発した7月14日に「フランス国民祭」が行われます。

日本では「パリ祭」とも。各地で一日中花火が打ちあげられる日です。

パリでは、朝10時から軍事パレードが開催され、フランス大統領出席のもとシャンゼリゼ通りからコンコルド広場まで約2.5キロメートルを、士官学校や海兵学校の生徒、消防隊、警察隊と続々行進しが始まります。 戦車も登場し、フランス軍で最強部隊だった外国人部隊が最後を飾ります。

この軍事パレードには、日本の自衛隊も参加しています。2018年には1週間前の7月6日に現地入りして、7月14日に向けて訓練と準備を重ねたようです。

フランス革命は「西欧世界主導の世界史」の流れを作った

フランス革命は18世紀後半に起きた約10年間の市民革命運動です。

フランス革命を要約してみると、フランス国家にとっては、長きに渡ったブルボン朝の絶対君主制時代と封建体制を倒し、近代国家体制に向けた市民革命(ブルジョア革命)です。また歴史的には、「アメリカ独立革命」に続いて起こった「大西洋革命」の一環であり、イギリスの「産業革命」とともに「近代資本主義社会」を完成させ、19世紀以降の西欧世界主導の世界史の流れをも作ったという意味で、西欧にとって最大の経済的効果を与える革命でした。

今のフランスの基礎となっているフランス革命について、14のキーワードでまとめていたいと思います。

①フランス革命は『アメリカ独立戦争』も大きな引き金

フランス革命は、アメリカ独立戦争終結の6年後に勃発します。

アメリカ独立戦争は、イギリスが東インド会社に茶の専売権を与えたことに反対したアメリカ植民地側の急進派が、ボストン港に入港していた同会社の船にから茶箱342箱(価格1万8千ポンド)を海中に投棄したことが発端でした。

アメリカ人がコーヒーを飲むの習慣はこの一件から来ています。

フランスは、フレンチ・インディアン戦争(1754年~1763年)七年戦争(1756年~1763年)とイギリスに敗れた結果、北アメリカでの植民地を失っていました。そこにアメリカ独立戦争が始まります。当然アメリカ側に付いて参戦しました。

フランスの多くの貴族が義勇兵として参加し、アメリカ植民地独立に対するアメリカ憲法、人権宣言などの考えに、影響を受けます。

義勇軍のなかには、フランス革命初期に中核となったラファイエットもいました。

②フランス革命の真因は平民の経済的困窮に尽きる。平民は生き抜けない!

フランスは 「アンシャン・レジーム」と言われる、特権的身分(第1身分の聖職者と第2身分の貴族)と第3身分の平民が明確に分かれていました。

特権身分は税免除でした。

特権階級と第3身分平民の割合はなんと2対98

  • 第1身分:聖職者140,000人
  • 第2身分:貴族400,000人
  • 第3身分:平民26,000,000人

また、当時の財政赤字は税収の9倍に達したと言われています。

税負担の最大の原因はイギリスや近隣諸国との長年の渡った軍事費と、増設を繰り返して来たヴェルサイユ宮殿の膨大な費用でした。

悪いことは重なりました。フランス革命の年は歴史的な小麦の不作に見舞われ主食であるパンの価格が高騰しました。

啓蒙思想家が不条理な身分の変革に向けて平民を鼓舞した

「蒙」は「くらい、道理をわきまえず、愚かなこと」、「啓」は「わからないことを教えて導くのこと」。

合わせると「人間知性の光に照らしだし、迷信と偏見の闇を打破して、新たな社会や思想を構築すること」となります。

英語では「enlightment」と言います。

啓蒙思想』は中世的な社会を打破し近代化を推し進めようとする近代思想で、モンテスキュー(1689〜1755年)の『三権(立法・行政・司法)分立』は「3分割しないと、人々の権利を守ることができなくなる」と、ルソー(1712〜1778年)の『社会契約説』では、「万人の平等に基づく人民主権論」を主張しました。

啓蒙思想』は平民にとって、不条理な身分の変革に向けて大きな希望となり、アメリカ独立戦争で感化された貴族も、ラファイエットを中心に『啓蒙思想』に傾倒します。

変革への機運が一気に高まり、「フランス革命」の準備が整います。

④ルイ16世は特権階級への課税を画策し失敗に終わる

ルイ16世は何もしなかったわけではなく、財政を何とか立て直すために特権階級に課税しようと画策しました。

しかし、特権階級の壁は厚く、しかたなく『三部会』を開会します。

三部会』とはフランスの身分制議会のことです。

遡ること約500年前フィリップ4世がローマ教皇と争った際、国民の支持を得るためにノートルダム大聖堂に各身分の代表を招集したのが最初とされています。

しかし『三部会』を開会するということは、国民の声を聴かなければならないなったことを意味し、既に絶対王政が揺らいだ証拠だったのです。

各身分ごとに一票の権利があり、聖職者と貴族が同じ意見だと平民は勝てません。当然、この画策は暗礁に乗り上げます。

⑤ついに第三身分が「国民議会」を設立、ルイ16世は議場を閉鎖した

1789年6月、業を煮やした平民は『国民議会』を発足します。

前述したアメリカ独立戦争の自由と平等の精神にかぶれた一部の特権階級も加わりました。

ルイ16世はこうした平民の強硬な姿勢に対し、議場を閉鎖するという断固たる措置を打ちます。。。これが火に油を注ぐことになりました。

議場から締め出された平民の代表たちは「『国民議会』の承認と憲法の制定を求め、ルイ16世の裁可が下りるまで解散しない」ことを誓います。後に『テニスコートの誓い』と呼ばれれます。

ルイ16世は身の危険を感じ、2万の軍隊をヴェルサイユに招集し、国民に人気があった財務担当も罷免します。

市民は武装蜂起し、フランス革命の火ぶたが切って落とされます。

下は『ルイ16世の肖像画』と『テニスコートの誓い』ダヴィッド作。

1789年7月14日バスティーユ牢獄襲撃、フランス革命が勃発

「全国三部会」を開会してからわずか2か月後でした。

バスティーユ牢獄は、かつて王政に反対する政治犯が裁判もなしに収容され、専制政治の象徴でした。

立ち上がった市民は、まずアンヴァリッドで武器を奪った後、弾薬と火薬を求めてバスティーユ牢獄へ押し掛けました。民衆の代表が要塞の司令官と交渉している間に、守備隊の発砲から戦闘となり、要塞は陥落してしまいます。

このバスティーユ牢獄陥落の報はまたたくまに広まり、全国で市民による領主の館への襲撃が開始され、フランス革命の火ぶたが切って落とされました。

⑦「ヴェルサイユ行進」フランス王室を100年ぶりにヴェルサイユからパリに連れ戻す

パン屋が殺される事件が起きるなど市民が飢餓の恐怖と戦っている時代でした。

ヴェルサイユ行進」の発端は、市民の窮状をよそにヴェルサイユ宮殿ではフランドル連隊歓迎の大宴会がありました。

この王室での贅沢三昧の一部始終が 、密偵によってすぐさま市民に伝わってしまいます。

怒りに立ち上がった6千人を超える女性たちが、1789年10月、ヴェルサイユ宮殿に向けて約20キロ、5時間の行進を開始しました。 ラファイエットを先頭に国民衛兵も後に続きます。

ヴェルサイユ宮殿に着くと、15人の代表者(内13人が女性)が入場を許され、食物が買えないことを訴えました。

外では市民と近衛兵が一触即発の状況になります。

結局、ルイ16世はこの恐怖から、窮状の訴えを聞き入れざるを得ず、食料の供給などすべての条件を約束します。

その後、ラファイエットの率いる国民衛兵、デモ隊に警護され、パリのテュイルリー宮殿へと向かいました。

フランス王室は、100年ぶりにヴェルサイユ宮殿からパリに移り、国民議会もパリに移りました。

ここから王政停止へ時代は動いていきます。

1789年11月、「ジャコバン・クラブ」の前身「ブルトン=クラブ」が設立され、国民議会の最大勢力として、主導権を握ります。

1794年11月閉鎖されるまで、革命の展開と共に内部分裂を繰り返し多くの血を流しました。

王権停止 ルイ16世の国外逃亡失敗と国王一家の幽閉

1791年6月、ヴァレンヌ逃亡事件が起きます。

ルイ16世は従僕に変装して、王妃らと共に国王夫妻が国外脱出を図ったのですが、翌日には 国境の手前のヴァルレンヌで捕らえられます。

国民議会は王権の停止を布告し、ルイ16世は失墜、王政廃止と共和政へと進んで行きます。

1791年「国民議会」に代わって「立法議会」が成立します。

1792年4月、オーストリアに宣戦布告し、長い戦争が始まります。既に弱体化していたフランス軍は各地で敗戦を重ねます。

マリー・アントワネットがオーストリア軍と密通が発覚します。フランス軍の動きが敵国に筒抜けになっていました。

この一件が王室にとって致命傷になり、情報漏洩が敗戦の理由であるとされ、国王一家は幽閉されます。

立法議会」は「祖国は危機にあり」と非常事態宣言を出し、国民衛兵に武装を命じ、義勇兵の募集を始めます。

このときマルセイユの義勇兵が歌いながら行進した曲が、「ラ・マルセイエーズ」、今のフランス国家です。

1792年8月、 チュイルリー宮が襲撃、 国王一家は監禁の身となり、革命は激動の3年を迎えます。

1792年9月、「立法議会」に代わって「国民公会(Convention Nationale)」が成立、王政の廃止を決議、フランスは第一共和政となります。

国民公会」とは一院制の立法府で、約3年に渡った革命政治の中央機関です。

パンテオン』の奥中央に『LA CONVENTION NATIONALE』と書かれた彫刻が置かれています。下には「VIVRE LIBRE OU MOURIR 自由に生きるか、それとも死ぬか」と書かれています。

1793年は1月のルイ16世の処刑から10月のマリー・アントワネットの処刑

国民公会」ではルイ16世の処刑を巡って大きく意見が分かれていましたが、ルイ16世が外敵と通謀していた証拠が見つかったことが決定打となり、処刑が決議、ルイ16世は処刑されます。

3月、反革命の陰謀を暴き、政治犯だけを裁く「革命裁判所」が設置され、恐怖政治の一大機関として猛威を振るいます。

国民公会」はジロンド派ジャコバン派の2大勢力が激しく対立していましたが、次第にジャコバン派が優勢となります。

ジャコバン派のロベスピエールは、「1793年憲法の制定」や「封建地代の無償廃止」を推進し、国王一家や王党派の残党、さらにはジロンド派議員をさえも次々と処刑して行きます。そして10月にはマリー・アントワネットが処刑されます。

⑩「テルミドールのクーデター」によって恐怖政治の終焉

過激すぎるロベスピエールは次第に民衆の支持を失い、議会の多数も反ロベスピエールに転じていきます。「暴君を倒せ!」の叫び声と共にロベスピエール逮捕が可決、即日コンコルド広場でギロチンにかけられました。

1794年7月「テルミドールのクーデター」によって、ロベスピエールは処刑され、恐怖政治は終わります。

1795年10月「国民公会」は解散し、「総裁政府」が成立しました。

天才軍人ナポレオンの出現フランス革命の終焉

こうした混沌とした時代に、天才軍人ナポレオン・ボナパルトが出現し、その類い稀な戦術力によって瞬く間に昇進していきます。

バスティーユ牢獄襲撃の時はまだ18歳の砲兵士官だった頃です。それから7年後の1795年、パリで起こった暴動(ヴァンデミエールの反乱)を鎮圧し、わずか25歳の若さで、国内軍司令官に任命されます。

1796年、ナポレオンは2万5千の軍勢を率いてアルプスを越え、7万のオーストリア・サルデーニャ王国連合軍を破り、さらにミラノに入城、オーストリア軍からボローニャなどの都市を解放し、北イタリア全域を制圧します。

ナポレオンの出身はフランス領コルシカ島です。イタリアには人一倍思い入れが強いはずです。

ナポレオンは1798年エジプト遠征に成功した後、パリでクーデーターを起こし、フランス新領政府を樹立します。

ようやく10年に渡った、フランス革命が終焉を迎えました。

ナポレオンがフランス皇帝ナポレオン1世となる 「ナポレオン法典」は最大の功績

1804年、軍事独裁政権を樹立し、民衆の自由と平等を実現するため、「ナポレオン法典」を公布し、新しい社会体制づくりをしていきます。この法律は「私有財産の不可侵」、「契約の自由」など現在に大きな影響を与えています。

後のナポレオンへの評価は厳しいものがあります。

しかし、「ナポレオン法典」 を作ったことだけは今でも彼の最大の功績であるという点で異論はないと思います。

1812年ナポレオンがロシア遠征失敗、ナポレオン1世の時代の終焉

1812年のロシア遠征失敗によってナポレオン1世の時代は終焉を迎えました。

再び、ブルボン家に政権が渡ります。ルイ18世による王政復古後、フランスは1830年の7月革命、1848年の2月革命を経て、近代国家への道へと歩を進めて行きます。

今でも革命時のスローガン「自由・平等・友愛」はフランス国家の理念として掲げられ、毎年、バスティーユ牢獄襲撃事件があった7月14日には凱旋門前で壮大なパレードが行われ、この日を祝っています。

⑭最後に、悲劇の王妃マリー・アントワネット

彼女こそが豪華絢爛な生活に溺れ、「浪費家の王妃」などと言われていまました。

「パンがなければお菓子を食べればいいじゃない」の言葉は余りにも有名です。

「彼女こそフランス財政破綻の根源だ」とされましたが、200年にも及ぶ膨大な軍事費、またルイ14世から始まったヴェルサイユ宮殿をはじめとした度重なる建築費に比べれば、彼女の個人の浪費は微々たるものでした。フランス国家を財政破綻に陥れるほどのものではありません。

敵国ハプスブルク家出身である彼女は、市民の怒りを爆発させるはけ口として、格好の標的になったのでした。

Follow me!